ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

「もう止まらない。すでに私たちの日常の一部になっているのです」by 奥田愛基さん

2015年09月15日 | 日本とわたし
10年前の、憲法記念日の前日に放送された、NHKの『その時歴史が動いた』。
「もう戦争はいやだ」
憲法九条 平和への闘争

1時間弱の放送を見て、1950年代の、政治家に翻弄される国民の様子の中に、今と似通ったところがたくさん見受けられたことに驚きました。
そして、吉田茂にせよ岸信介にせよ、国を立て直そうとする気持ちが根底にあったとはいえ、結局は、自らの野望と保身のために、戦勝国アメリカが出してくる条件を受け入れた。
そのことを、改めて認識しながら見たビデオでした。

戦争の放棄、戦力の不保持。
日本国憲法の平和主義は、世界でも類を見ない徹底したものでした。
そんな憲法を制定させておきながら、朝鮮戦争が勃発し、東西冷戦が激化してきた途端、一切の軍備を捨てた日本に再軍備を求めるアメリカ。
その要求を呑めば独立させてやる。
こんな独立は独立ではなかったのです。

その頃のことを、詳しく書いてくださった池田香代子さんのブログ記事を、ここに紹介させていただきます。

2010年11月17日
「沖縄に米軍基地があれば9条は変えなくていい」とマッカーサーは言った
href="http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/51500783.html"target="_blank">http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/51500783.html

沖縄の米軍基地が、仮設のいわゆる「かまぼこ兵舎」から本格的な建造物に変わったのは、いつのことでしょうか。
それには、48年という年が、意味をもっているそうです。

戦後、冷戦がその相貌をあきらかにし始め、アメリカは、日本の軍備を考えるようになりました。
48年、ケナン国務省政策企画本部長が来日し、日本に軍備をもたせろとの米政府の方針を、マッカーサーに伝えます。
前年に、新憲法が施行されたばかりだというのに。

マッカーサーは、この本国からの指令に、異を唱えます。
「占領方針を変えることは、GHQの権威に傷がつく。
9条は歓迎されているので、もしも軍隊を創設するなら、アメリカが強制しなければならず、それは得策ではない」と。
マッカーサーは、それまで自分が行ってきた施策に、本国政府だろうが、口を挟まれたくなかったのでしょう。
「日本が軍隊をもたなくてもだいじょうぶだ」と、マッカーサーはケナンを説得します。
ダグラス・ラミスさんの新著『要石:沖縄と憲法9条』(晶文社)に書いてありました。
ここからは、直接この本から引用します。

マッカーサーは、
「なぜ大丈夫かというと、沖縄があるから」と言いました。
「沖縄に半永久的な基地をつくれば、沖縄から、米軍が軍事力で日本を守ることはできる」と。
「沖縄に大きな基地を作れば、日本の九条は変えなくてもいい」と言ったのです。
だから、マッカーサーの頭の中で、それからアメリカの政策の中で、
沖縄の米軍基地と日本の憲法九条は、同じ政策の裏表だと思っていたんです。

日本を「共産主義の脅威」から守るという米軍基地が、なぜ沖縄に構想されたのか
それは地理的条件ではなく、当時沖縄がアメリカの施政権下にあって、基地がつくりやすかったという、政治的な条件がすべてだったことが、このエピソードから明らかです。
おそらくマッカーサーの頭には、47年9月に伝えられた、
「米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。
米国による沖縄占領は、共産主義の影響を懸念する、日本国民の賛同も得られる」という、
昭和天皇の沖縄メッセージ
が、強烈にすり込まれていたことでしょう。

沖縄の米軍基地と憲法9条と天皇制は、敗戦直後、絶妙の政策ブレンドとして採用されたのです。
なんというグロテスクな歴史の現実でしょうか。
そして、51年の日米安保条約で、恒久的な(沖縄での)基地提供が法的な根拠を得、
50年代、日本各地で米軍基地反対の声が強まるにつれ、米軍が陸続と沖縄に移っていった
、その流れの先端に、2010年は位置するわけです。

↑以上、転載おわり


そう、グロテスク…。
この言葉がぴったりだと思いました。
政治家と戦争屋はこうして、さまざまな国で、グロテスクな歴史を紡ぎ続けています。
そのグロテスクさを隠すために、金とウソをばら撒き散らし、わたしなどはまんまと騙されてきました。

ここ数日、ヘッドホンをして文字起こしをしていると、夫が横から、そういうのが一番疎外感を感じるのでやめてほしいと言われました。
わたしが何を聞き、何に一所懸命になっているのか、それが全く分からないと。
文字起こしをする時は大抵、何度も聞き直さなければなりません。
早口の人の話は特に、少し大きめの音量にして、止めては書き、また止めては書きという作業が続きます。
そういう音を聞くのは苦痛だろうと、こちらとしては気を遣っているつもりだったのですが、長い番組だったので時間がとてもかかったのも原因だったと思います。

いったいどうしてそんなことをしているのか。
それは仕事なのか。

仕事…そう言われて考え込んでしまいました。
今のわたしにとって、日本やアメリカ、そして耳や目に入ってくる国々の問題について考えることは、最早当たり前のことになりました。
考えるだけではなくて、考えたこと、知ったことを、ここに記しておくことも、やはり日常の中の一コマになりました。
こういうことをして、いったい何になるのか。何のためにやっているのか。
ここまできて、改めて気づいたことがあります。
もうそんなことを全く考えなくなった、ということです。
いったい何になるのか、何のためにやっているのか、そういうことが全く気にならないのです。
けれども、正直言うと、もちろん時間をかけてやるわけなので、普段の生活に大変なことが起こったり、とても忙しくなったりした時は、これさえなかったらもう少しは楽だろうに…などと思ったりもします。
でももう止まらないのです。
この感じを、中央公聴会に出席した奥田くんが、見事に表現してくれました。

「こんな不断の努力なくして、この国の憲法や民主主義、それらが機能しないことを自覚しているから」
「もう止まらない。すでに私たちの日常の一部になっている」
「政治のことを考えるのは仕事ではありません。この国に生きる個人としての不断の、そして当たり前の努力です」



前置きが長くなってすみません。
昨日15日の中央公聴会での、奥田愛基さん意見陳述全文です。
岩上さん率いるIWJのぎぎまきさんが、文字起こしをしてくださいました。

9月15日中央公聴会、奥田愛基さん意見陳述全文
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/264668

ご紹介に預かりました、大学生の奥田愛基といいます。
『SEALDs』という学生団体で活動しております。

すみません、こんなことを言うのは非常に申し訳ないのですが、
先ほどから寝ている方が沢山おられるので、もしよろしければお話を聞いていただければと思います
僕も二日間くらい緊張して寝られなかったので、僕も帰って早く寝たいと思っているので、よろしくお願いします。

初めに、『SEALDs』とは、”Student Emergency Action for Liberal Democracy”。
日本語で言うと、『自由と民主主義のための学生緊急行動』です。

私たちは、特定の支持政党を持っていません
無党派の集まりで、保守、革新、改憲、護憲の垣根を超えて繋がっています
最初はたった数十人で、立憲主義の危機や、民主主義の問題を真剣に考え、5月に活動を開始しました

その後、デモや勉強会、街宣活動などの行動を通じて、
私たちが考える、国のあるべき姿や未来について、日本社会に問いかけてきた
つもりです。

こうした活動を通して、今日、貴重な機会をいただきました。
今日、私が話したいことは、3つあります。
1つは、今、全国各地で、どのようなことが起こっているか。
人々が、この安保法制に対して、どのように声を上げているか。

2つ目は、この安保法制に関して、現在の国会は、まともな議論の運営をしているとは言いがたく、あまりにも説明不足だということです。
端的に言って、このままでは、私たちはこの法案に関して、到底納得することができません

3つ目は、政治家の方々への、私からのお願いです。

まず第一にお伝えしたいのは、私たち国民が感じている、安保法制に関する大きな危機感です。
この安保法制に対する疑問や反対の声は、現在でも、日本中で止みません
つい先日も、国会前では、10万人を超える人が集まりました

しかし、この行動はなにも、東京の、しかも国会前(だけ)で行われているわけではありません。

私たちが独自に、インターネットや新聞などで調査した結果、
日本全国2000ヶ所以上、数千回を超える抗議が行わわれています
累計して、130万人以上の人が、路上に出て声をあげています

この私たちが調査したものや、メディアに流れているもの以外にも、沢山の集会が、あの町でもこの町でも行われています
まさに、全国各地で声があがり、人々が立ち上がっているのです。

また、声を上げずとも、疑問に思っている人は、その数十倍もいるでしょう。

強調しておきたいことがあります。
それは、私たちを含め、これまで政治的無関心と言われてきた若い世代が、動き始めているということです。
これは、誰かに言われたからとか、どこかの政治団体に所属しているからとか、いわゆる動員的な発想ではありませ

私たちは、この国の在り方について、この国の未来について、主体的に一人ひとり、個人として考え、立ち上がっているのです。

SEALDsとして活動を始めてから、誹謗中傷に近いものを含む、さまざまな批判の言葉を投げかけられました

例えば、『騒ぎたいだけだ』とか、『若気の至り』だとか、そういった声があります。
他にも、『一般市民のくせにして、何を一生懸命になっているのか』というものもあります。
つまり、『お前は専門家でもなく学生なのに、もしくは主婦なのに、お前はサラリーマンなのに、フリーターなのに、なぜ声をあげるのか』ということです。

しかし、先ほどもご説明させていただきましたように、私たちは一人一人、個人として声をあげています。
不断の努力なくして、この国の憲法や民主主義、それらが機能しないことを、自覚しているからです。

『政治のことは、選挙で選ばれた政治家に任せておけばいい』。
この国にはどこか、そういう空気感があったように思います。


それに対し私、私たちこそが、この国の当事者、つまり主権者であること、
私たちが政治について考え声をあげることは、当たり前なんだということ、そう考えています。

その当たり前のことを当たり前にするために、これまでも声を上げてきました
そして、2015年9月現在、今や、デモなんてものは珍しいものではありません
路上に出た人々が、この社会の空気を変えていったのです。

デモや、至るところで行われた集会こそが、『不断の努力』です。
そうした行動の積み重ねが、基本的人権の尊重、平和主義、国民主権といった、この国の憲法の理念を体現するものだ、と私は信じています。

私は、私たち一人ひとりが思考し、何が正しいのかを判断し声をあげることは、間違っていないと確信しています。
また、それこそが民主主義だと考えています。

安保法制に賛成している議員の方々も含め、戦争を好んでしたい人など、誰もいないはずです。

私は先日、予科練で、特攻隊の通信兵だった方と会ってきました
70年前の夏、あの終戦の日、20歳だった方々は、今では90歳です。
ちょうど今の私や、SEALDsのメンバーの年齢で、戦争を経験し、そして、その後の混乱を生きてきた方々です。

そうした世代の方々も、この安保法制に対し、強い危惧を抱かれています
私は、その声を、しっかりと受け止めたいと思います。
そして議員の方々も、どうか、そうした危惧や不安を、しっかり受け止めてほしいと思います。

今、これだけ不安や反対の声が広がり、説明不足が叫ばれる中での採決は、そうした思いを軽んじるものではないでしょうか
70年の不戦の誓いを、裏切るものではないでしょうか

今の反対のうねりは、世代を超えたものです。
70年間、この国の平和主義の歩みを、先の大戦で犠牲になった方々の思いを引き継ぎ、守りたい
その思いが、私たちを繋げています。

私は今日、そのうちのたった一人として、ここで話をしています。
つまり、国会前の巨大な群像の中の一人として、国会にきています


第二に、この法案の審議に関してです。

各世論調査の平均値を見たとき、初めから、過半数近い人々が反対していました
そして、月を追うごと、反対世論は拡大しています
『理解してもらうためにきちんと説明していく』と、現政府の方はおっしゃられておりました

しかし、説明した結果、内閣支持率は落ち、反対世論は盛り上がり、この法案への賛成の意見は減りました

選挙の時に、集団的自衛権に関してすでに説明した、とおっしゃる方々もいます
しかしながら、自民党が出している重要政策集では、
アベノミクスに関しては、26ページ中8ページ近く説明されていましたが、
それに対して、安全保障関連法案に関しては、たった数行でしか書かれていません

昨年の選挙でも、菅官房長官は、『集団的自衛権は争点ではない』と言っています
さらに言えば、選挙の時に国民投票もせず、解釈で改憲するような、違憲で法的安定性もない、
そして、国会の答弁をきちんとできないような法案を作るなど、私たちは聞かされていません


私には、政府は、法的安定性の説明することを、途中から放棄してしまったようにも思えます
憲法とは国民の権利であり、それを無視することは、国民を無視するのと同義です。

また、本当に、与党の方々は、この法律が通ったらどんなことが起こるのか、理解しているのでしょうか、想定しているのでしょうか
先日言っていた答弁とはまったく違う説明を、翌日に平然とし、野党からの質問に対しても、国会の審議は、何度も何度も速記が止まるような状況です。

このような状況で一体、どうやって国民は納得したらいいのでしょうか

SEALDsは確かに注目を集めていますが、現在の安保法制に対して、その国民的な世論を、私たちが作り出したのではありません
もしそう考えていられるのでしたら、それは、残念ながら過大評価だと思います。

私の考えでは、この状況を作っているのは紛れもなく、現在の与党のみなさんです
つまり、安保法制に関する国会答弁を見て、首相の、テレビでの理解し難い例え話を見て、
不安を感じた人が国会前に足を運び、また、全国各地で声を上げ始めた
のです。

ある金沢の主婦の方が、Facebookに書いた国会答弁の文字起こしは、瞬く間に1万人もの人にシェアされました。ただの国会答弁です。
普段なら見ないようなその書き起こしを、みんなが読みたがりました

なぜなら、不安だったからです。

今年の夏までに、武力行使の拡大や集団的自衛権の行使の容認を、なぜしなければならなかったのか
それは、人の生き死にに関わる法案で、これまで70年間、日本が行ってこなかったことでもあります

一体なぜ、11個の法案を、2つにまとめて審議したか、その理由もよく分かりません
ひとつひとつ審議しては、駄目だったのでしょうか。
まったく納得が行きません

結局、説明をした結果、しかも国会の審議としては異例の、9月末まで延ばした結果、国民の理解を得られなかったのですから、もう、この議論の結論は出ています

今国会での可決は無理です。
廃案にするしかありません

私は毎週、国会前に立ち、この安保法制に対して、抗議活動を行ってきました。
そして、沢山の人々に出会ってきました。
その中には、自分のおじいちゃんやおばあちゃん世代の人や、親世代の人、そして最近では、自分の妹や弟のような人たちもいます。

確かに若者は、政治的に無関心だといわれています。
しかしながら、現在の政治状況に対して、どうやって彼らが、希望を持つことができるというのでしょうか。
関心が持てるというのでしょうか。

私や彼らがこれから生きていく世界は、相対的貧困が5人に1人といわれる、超格差社会です。
親の世代のような経済成長も、これからは期待できないでしょう。
今こそ、政治の力が必要なのです。

どうかこれ以上、政治に対して絶望をしてしまうような仕方で、議会を運営するのはやめてください

何も、賛成からすべて反対に回れ、と言うのではありません。
私たちも、安全保障上の議論は、非常に大切なことを理解しています
その点について異論はありません。
しかし、指摘されたこともまともに答えることができないその態度に、強い不信感を抱いているのです。

政治生命をかけた争いだとおっしゃいますが、政治生命と国民一人ひとりの生命を比べてはなりません
与野党の皆さん、どうか、若者に希望を与える政治家でいてください
国民の声に耳を傾けてください
まさに、『義を見てせざるは勇なきなり』です。

政治のことをまともに考えることが、馬鹿らしいことだと思わせないでください
現在の国会の状況を冷静に把握し、今国会での成立を断念することはできないのでしょうか

世論の過半数を超える意見は、明確にこの法案に対し、今国会中の成立に反対しているのです。
自由と民主主義のために、この国の未来のために、どうかもう一度、考えなおしてはいただけないでしょうか

私は単なる学生であり、政治家の先生方に比べ、このようなところで話すような立派な人間ではありません。
もっと言えば、この場でスピーチすることも、昨日から寝られないくらい緊張してきました。
政治家の先生方は、毎回、このようなプレッシャーに立ち向かっているのだと思うと、本当に頭が下がる思いです。

一票一票から国民の思いを受け、それを代表し、この国会という場所で毎回答弁をし、最後には投票により法案を審議する。
本当に本当に、大事なことであり、誰にでもできることではありません。
それは、貴方たちにしかできないことなのです。

では、なぜ私はここで話しているのか。
どうしても勇気をふり絞り、ここにこなくてはならないと思ったのか。
それには理由があります。

参考人として、ここにきてもいい人材なのか分かりませんが、参考にしてほしいことがあります。

ひとつ、仮にこの法案が、強行に採決されるようなことがあれば、全国各地で、これまで以上に声が上がるでしょう
連日、国会前は人で溢れかえるでしょう
次の選挙にも、もちろん影響を与えるでしょう

当然、この法案に関する、野党の方々の態度も見ています
本当に、できることはすべてやったのでしょうか
私たちは決して、今の政治家の方の発言や態度を忘れません

『三連休を挟めば忘れる』だなんて、国民を馬鹿にしないでください
むしろ、そこからまた始まっていくのです。
新しい時代はもう始まっています
もう止まらない
すでに、私たちの日常の一部になっているのです。

私たちは学び、働き、食べて、寝て、そして、また路上で声を上げます
できる範囲で、できることを、日常の中で

私にとって、政治のことを考えるのは、仕事ではありません。
この国に生きる個人としての、不断の、そして当たり前の努力です。
私は、困難なこの4ヶ月の中で、そのことを実感することができました。
それが私にとっての希望です。


最後に、私からのお願いです。
SEALDsの一員ではなく、個人としての、一人の人間としてのお願いです。

どうか、どうか、政治家の先生たちも、個人でいてください
政治家である前に、派閥に属する前に、グループに属する前に、たった一人の『個』であってください
自分の信じる正しさに向かい、勇気を持って孤独に思考し、判断し、行動してください

みなさんには、ひとりひとり、考える力があります。
権利があります。
政治家になった動機は、人それぞれ様々あるでしょうが、どうか、政治家とはどうあるべきなのかを考え、この国の民の意見を聞いてください

勇気を振り絞り、ある種、賭けかもしれない、あなたにしかできないその尊い行動を取ってください
日本国憲法はそれを保障し、何より日本国に生きる民、一人ひとり、そして私は、そのことを支持します

困難な時代にこそ希望があることを信じて、私は、自由で民主的な社会を望み、この安全保障関連法案に反対します

2015年9月15日、奥田愛基。
ありがとうございました。
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「一人一人の人間が尊重される世の中が、憲法9条が訴える平和の世の中なんだ」憲法九条・平和への闘争より

2015年09月15日 | 日本とわたし
39分20秒より

昭和32年2月25日、憲法改正に意欲を燃やす岸信介が総理大臣になります。


しかし、前の年の参議院選挙で、改憲に必要な2/3の議席を確保できなかったため、新たな戦術に打って出ます
岸は、アメリカの駐日大使と交渉を始めます


押し出したのは、日米安保条約の改定でした。


安保条約では、在日米軍に基地を提供しているにもかかわらず、日本を防衛する義務は明記されていませんでした




日本の安全保障にとっては、不平等なものでした。
安保改定の狙いを、岸は、アメリカ側にこのように伝えています。

安保条約を改定することで世論をつかめば
(modifying the Security Treaty swing public opinion)


選挙に勝つことができ、憲法改正ができる
(win elections and then revise the constitution)

(アメリカ駐日大使の記録より)

岸は、安保条約の不平等さを解消することで、国民の支持を得て、改憲を成し遂げようと考えたのです。

昭和35年1月19日、およそ3年かけて、岸は、日米新安全保障条約の調印に至ります


残すは、国会での条約批准審議と採決だけでした。


安保条約を合理的に変えようと、その内容は従来から不合理であるから、変えなきゃいかんと言われておったことを、
数年かかってアメリカをして承認せしめたことでございますから、是非私はこの国会で承認を成立させたい
と、こう思っております。



しかし、浅沼稲次郎率いる社会党は、この新条約に猛反発します。
浅沼たちが問題にしたのは、新安保条約の5条です。


そこには、日本のしせいか(?)で、日米いずれかが武力攻撃を受けた場合、もう一方も自らの安全問題と考え、共通の危険に対処することが約束されていたのです。

浅沼氏;
すなわち、憲法的にこれを見ればですね、大きな疑義が出てくるわけです。
第一には、国際紛争を解決する手段として、戦争放棄をした日本が、アメリカとよその国の国際紛争のために巻き込まれる危険性がある


この社会党の懸念が、現実味を帯びる事件が起きます。
昭和35年5月、ソ連上空で、米軍のU2偵察機が撃墜されたのです。


ソ連のフルシチョフ首相は、西側諸国に警告を発します。

ソ連に向け、偵察機を発信させる基地を、攻撃する


国会では、さっそく野党がこの事件を取り上げ、政府を追及します。

これは日本に国民にとって、非常に重大な関係がある。


なぜならば、同じ飛行機のU2機が日本にあるからだ。だから問題なのだ


実はこの頃、厚木の米軍基地にも、U2偵察機が配備されていたのです。

さらに野党は問い質します。

ソ連が日本の米軍基地を攻撃してきた場合、新安保条約の5条は発動されるのか


時の藤山外務大臣は、こう答えました。

もし武力攻撃があれば、第5条を発動することになる


この答弁は、日本がアメリカの戦争に巻き込まれる可能性を、国民に示すことになりました

この頃新聞には、安保改定を批判する投書が寄せられていました。




自衛隊員の投書です。



『われわれは『いつかきた道』を歩まんがために、生命を売って銃をとっているのではない。


「自衛手段の必要性」だけを信じて、この泥くさい職業を選んだのである』




国権の発動たる戦争を放棄した、憲法9条の第一項。
国権の発動たる戦争と、武力の行使は、永久にこれを放棄する。



国民の多くは、岸の政策がこれに反し、戦争へ向かっていると感じたのです。

しかし岸は、9条を改正して軍事力を持つことも、新安保条約でアメリカと共に防衛力を強化することも、
日本の平和を守るための、現実的な手段だという信念に貫かれていました


何が何でも新条約を成立させずにはおかない、という気持ちだった。
それが政治家としての私の責務であり、
国家、民族の平和と繁栄に貢献すると、確信していた。

「岸信介回顧録」より



昭和35年5月19日、国会の議論が今なお紛糾する中、岸内閣は、新安保条約の採決に入ります
社会党議員がいない中での強行採決


新条約は、一ヶ月後に、承認されることになりました。

しかし、岸のこのやり方が、国民の怒りに火をつけます
「安保反対!安保反対!」


強行採決の翌日から、国会はかつて無い民衆に囲まれ始めます

安保反対の請願書には、2千万に及ぶ人々が署名したといいます。


それはひとえに、戦争はもういやだという、悲痛な訴えでした




さらに、全国でも、反対集会が行われます。


安保改定に反対して、ストを起こす商店街が出てくるほど、一般市民の怒りは広がったのです。


昭和35年6月15日午前0時、新安保条約は自然承認されました。


しかし一ヶ月後、昭和35年7月15日、国民の支持を失った岸は、退陣します



その4日後、池田勇人を首班とする内閣が発足します。


岸内閣の閣僚だった池田の、改憲に対する姿勢に注目が集まりました

そしてその時、昭和35年、1960年9月7日、


新政策を公表する記者会見。
池田は、こう表明します。
「憲法改正は、いま考えていない」


その後も池田は、「改憲」を政策として打ち出すことはなく、以来、憲法改正を実現した総理大臣は現れていません。


その結果、憲法9条は、施行から60年を経た今日まで、一言一句変わっていないのです。




スタジオ
松平アナウンサー:
坂元さんは、今日のその時を、どうお捉えになりますか?

坂元氏:
岸首相は、安保条約の不平等さを是正する安保改定が、憲法改正のテコになると考えたようです。
しかし、安保騒動が起こって、退陣せざるを得なくなると。
それだけではなくて、その後の自民党は、国論を二分する問題の議論には、非常に慎重になるんですね。
そのことが、憲法改正の意気込みを、後退させることになりました
その象徴が、今日のその時の、池田さんの発言なんですね。
岸首相の後を継いだ池田さんは、低姿勢で、つまり憲法改正のような、力技を必要とするような問題は、なるべく避けて、


高度経済成長に邁進して、保守政治の安定を図る
と、そういう政策をとっていきます。


それが、戦後保守政治の基本的な政策にもなっていくわけですね。


松平アナウンサー:
なるほど。
古関さんは、今日のその時をどう、歴史を動かしたとお考えになりますか?


古関氏:
そうですね、国民に平和憲法が定着しはじめた時代、というふうに私は見ます。


ただ、しかしその持つ意味というのは非常に複雑でして、憲法9条は全く変わらない
ですけれども、現実はどんどん変わっていく
それを、政府の解釈によって、憲法の9条の枠組みの中で可能にしていく
その頃から、『解釈改憲』という言葉が出てきますけれども、そのような事が為されてくる時代の始まりでもあった。

しかしその一方で、見方を変えてみれば、その解釈改憲をするのにいつもこう、9条を気にしつつ、9条に配慮しつつ、その整合性をどうとるか、ということを考えていた。


ま、いうなれば9条がバランサーとして存在した時代、いうふうにも言えるのではないかと思っております。


松平アナウンサー:
この冷戦後の今、ですね、その今と9条との関わり、これはどういうふうにお考えになっていますか?


古関氏:
冷戦後、国家間の戦争というものから、地域紛争とか、あるいはテロとかというものに、どう対応するかというような問題になってきた
そんな中で、国連などで、人間の安全保障なんていうことが言われておりますけれども、


私たちは、9条のもとで、軍事のみによらない安全保障ということで、具体的にどう進めるのかということを考えなければならない時代を、すでに迎えているといいますか、そんなふうに私は思っております。


坂元氏:
日本は世界の大国として、狭い意味での自衛だけではなくて、国際的な安全保障の問題の解決に、応分の負担を求められているわけであります。
国際紛争解決のための戦争はしないと。
それは、今も昔も、明確な国民のコンセンサスなんですけれども、
それを守りつつ、新しい課題にどうこたえていくか
そのために9条の改正が必要なのか、あるいは解釈の変更で良いのか、それとも改正も解釈の変更も必要無いのか
国民の間の、真剣な議論が求められていると思いますね。



松平アナウンサー:
ありがとうございました。
施行60年という節目の年の、憲法記念日を明日に控えて、
今日の『その時歴史が動いた』は、憲法、それも憲法9条を正面に据えて、考えてまいりました。
この番組の終わりにあたって、この憲法9条に真剣に向き合って、そして真剣に考えている人たち、
その姿をご紹介しながらの、今日はお別れにしたいと考えます。
今夜もご覧いただき、ありがとうございました。



1989年に冷戦は終結。
しかしその後も世界では、戦争や紛争があとを絶ちません。
自衛隊は、現行憲法9条のもとで、国際貢献という新たな役割を担い、海外にも派遣されるようになっています。
先月(平成19年4月5日)、防衛大学校の入校式が行われました。


「日本国憲法、法令、及び校則を遵守し、」



入校したのは、平均18歳の若者483人。
冷戦崩壊の時に生まれた世代です。
これから4年間、自衛隊の指揮官としての知識と技能を身につけ、防衛の最前線に立つことになります。
ひとえに、国を守ることを念頭に行われる学生生活。
憲法9条と自分たちの職務についても、思いを巡らせています。

西森智章さん(21):
憲法9条に関しては、しっかり皆さんが納得できるような形になっていないので、それを納得できる形にすることが一番大事だと思います。


野小生淳さん(22):
必要最低限度の実力とか、中途半端な形になっていると思うんですけど、
そういう状態であるからこそ、みんなが関心を持って、それについて考えている状態なので、今のままでもいいと思います。



かつて砂川闘争があった、東京都立川市砂川町。


昭和43年、米軍立川基地の拡張計画は中止され、その後、日本に全面返還されました


農民のリーダーだった宮岡政雄さん
宮岡さんは、基地返還後も、沖縄や横田などで、基地反対を訴え続けました


宮岡さんが、69歳で亡くなるまで愛用していた『六法全書』


昼は農作業、夜は独学で法律を学びながら、平和を訴え続けました


娘の京子さんは、世の中の動きを見つめ、父の訴えが今こそ大切だと感じています


福島京子さん:
父が本当にこう、平和平和ということを、なぜいつまでも言い続けるのかっていうことが不思議でならなかったけれども、
やはりそれを訴え続けなければ、平和は維持できない
やはり、日常の中で、常に目を見張って、想像力を持って生きていくことが、平和を守っていくことなんではないかなということを、最近は特に思いますね。



旧米軍立川基地は、現在、自衛隊や公園などに利用されています。
基地に隣接するこの土地で、妻の公子さんと娘の京子さんは、今も農作業を続けています。


憲法9条に、さまざまな考え方がある中、宮岡さんは、すべての人々に共通する平和について、京子さんにこうつぶやいたといいます。

「一人一人の人間が尊重される世の中が、憲法9条が訴える平和の世の中なんだ」
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「日本国憲法の平和の精神と、私たちがやってる戦争反対や基地反対の運動は一体のものである」砂川闘争

2015年09月15日 | 日本とわたし
昨日の続きです。
『その時歴史が動いた』

憲法九条 平和への闘争
~1950年代 改憲・護憲論~

【NHK 2007年5月2日放送】20分20秒あたりから

ナレーション

昭和29(1954)年11月24日、鳩山一郎を総裁とする日本民主党が結成されます。


民主党は、軍備を増強する吉田の政策が、憲法9条と矛盾していると非難
不信任案を突きつけ、退陣に追い込みます

そして、鳩山内閣が誕生
目指したのは、軍備の保有を憲法で認めるため、9条を改正すること
改憲でした


この改憲勢力の旗揚げを勧めた中心人物がいました。
日本民主党幹事長、岸信介です


岸が改憲を主張したのは、戦後10年近くを経た日本の在り方への疑問からでした。

戦時中、東条英機内閣の商工大臣だった岸は、太平洋戦争を推し進めた閣僚のひとりでした。


戦後、岸は永久戦犯の容疑で逮捕されます


岸は、戦争に負けた責任を強く感じていました。

『これだけ破壊された日本をどうして復興するか。
われわれが戦争指導者であった責任からいって、日本の将来の基礎をつくらねばならない』

「岸信介の回想録」より

その後、不起訴となり釈放された岸は、日本が占領から脱した後に政界に復帰
その目に映ったのは、アメリカの支配下から未だ抜け出せない、日本の姿でした。


そしてその象徴が、GHQの指導の元で作られた憲法だと、岸は感じていました


民族的自信と独立の気魄を取り戻す為めには、吾々の手に依って作られた憲法を持たねばならぬ。
「岸信介の回想録」より


岸が訴えたのは、日本人自らの手による憲法の改正。
中でも、国を守る軍事力を持てるよう、憲法に明記するすることが重要と考えたのです。


憲法を改正するには、衆参両院で2/3以上の議員の賛成が必要でした。


その勢力を確保するため、岸は、さらに他の保守系の政党と、合同を進めようとします
しかしこの動きは、政界内に強い反発を招きます。
その中心人物が、右派社会党書記長の浅沼稲次郎でした。


浅沼は、改憲は軍備増強につながると、抵抗を始めます。
戦時中、浅沼の属する社会大衆党は、政府の戦争遂行に協力する『大政翼賛会』に参加していました。


しかし、昭和20年3月の東京大空襲で、浅沼の住む町は焦土と化し、多くの仲間を失いました。

『戦争は残酷なものだ。
すべてを滅亡させる。
私は、戦争の死線をこえて、これからは余禄の命だと心に決めた。
そしてその命を、今後の日本のために、投げださねばならぬ』

「私の履歴書」より


戦争に加担した罪の意識
戦後、浅沼は社会党に入り、平和を訴える活動に身を投じていたのです。

昭和30年10月13日、浅沼たちは、岸の進める改憲の動きに抗うため、左派と右派に分裂していた社会党を統一します。


社会党は綱領に、『平和、民主憲法の擁護』と記し、憲法9条を守る『護憲』を掲げました



その1ヶ月後の昭和30年11月15日、岸の進めてきた保守勢力の合同も実現
『自由民主党』が誕生します。


自民党の政綱には、『自衛軍備の整備』


そして、『憲法の自主的改正』が掲げられました


ここに、改憲・護憲を掲げた保革2大政党による政治体制、いわゆる55年体制が始まるのです。


明る昭和31年7月の参議院選挙は、改憲が護憲かを問う初めての選挙になりました。


自民党は、憲法を改正するためには、どうしても2/3の議席が必要だ、と主張します。


一方社会党は、それを阻止するため、1/3の議席確保を訴えます。



結果は、改選議席数127のうち、自民党61、社会党49
社会党は大きく議席を伸ばし、他の護憲勢力と合わせ、1/3を超える議席を獲得します。
国民は、憲法改正に対して、ノーの審判を下したのです。

それは、池田内閣が、改憲・護憲論争に終止符を打つ、4年前のことでした。




スタジオ
松平アナウンサー:
坂元さん、戦後政治の枠組みとして、40年近く続いた、いわゆる55年体制
あれが憲法9条をめぐる対立と、相当大きく関わっていたということですね。


坂元氏:
私の見るところ、9条の一項・戦争放棄、それについてはコンセンサス(合意)があった


がしかし、自分たちの国を守る、自衛はどうするんだということになりますと、大きな対立がありました
これは、9条二項に関わる問題です。


で、この問題で、一方には、過去の戦争を反省し、武器の無い平和な世界を作る
そのために、そういう理想を求めて、非武装・中立の国になるべきだ、という意見があります。


他方、理想論では国の安全は保てない
過去の反省は反省として、日本にも必要最小限の自衛力は必要だし、それが現実的だという意見があります。


この9条、特に9条二項をめぐる、この理想論と現実論の対立は、
東西冷戦下、55年体制における保守勢力と革新勢力の間の激しい論尊、その論争の中心テーマのひとつになりましたね。


松平アナウンサー:
古関さん、その護憲か改憲かをめぐる初の国政選挙で、護憲派が1/3以上の議席を得た。
この結果はどういうふうにお捉えになりますか?


古関氏:
こちらに、憲法9条改正の賛否を問う世論調査のグラフがございます。
これを見ていただきますと、昭和29年(1954年)までは、憲法を改正するべきだという世論が上回っています


これは朝鮮戦争の影響が非常に大きかった
が、しかしながらこの50年代半ばというのは、日本にも米軍基地を新設したり、あるいは拡張する、というようなことをします。
あるいはまた、自衛隊という組織が作られたのもこの頃ですね。

で、そうなってまいりますと、国民から見ますと、だんだん戦争というものが身近に感ぜられるといいますか、
そういう中で、憲法改正の反対の世論というものが、賛成の世論を上回ってくる、逆になってくるわけですね。


松平アナウンサー:
まあそうした状況の中で、当時日本の国民の間では、いったい何が起こっていたのでありましょうか。
ここでは、具体例を通してそれを見ていきたいと思います。



昭和29年3月、アメリカが太平洋のビキニ環礁で、水爆実験を行います


その時、近くで操業していた日本の漁船が巻き込まれました。
第五福竜丸事件です。


船員23人は全員被曝し、そのうち一人が亡くなりました

この事件を受けて、翌年、広島で、原水爆禁止世界大会が開かれます




憲法9条を持つ日本人が、世界に平和を訴えていく一大契機となりました


この年、東京の砂川町で、米軍立川基地の拡張計画をきっかけに、大きな事件が起こりました


基地に土地を奪われようとしている農民たちと、土地を接収しようとする政府が対立
農民側には、社会党や労働組合、そして学生たちなどが加わり、機動隊と衝突を繰り返します。


足掛け14年に渡って繰り広げられた『砂川闘争』です。


砂川町の住民は、戦前戦中は、日本陸軍の飛行場のために、そして戦後は、進駐してきたアメリカの基地のために、
土地を10回近くも提供させられてきました



その多くは農地でした


今回、この拡張計画で、5万2千坪、およそ17万平方メートルが新たな対象とされ、農民たちはついに立ち上がったのです。


農民のリーダーのひとりだった宮岡政雄さんです。


宮岡さんは生前、政府に抵抗する理由を、娘の京子さんに語っていました。

福島(旧姓・宮岡)京子さん:
これでもかこれでもかっていう感じで、やっとこれで生活が立て直せると思うと、また接収が行われる。
もうこれ以上、生活の手段である土地を奪われたくない
というのが、まず第一にあったと思いますね。


やがて農民たちは、すでに基地に利用されていた自分たちの土地も、取り返したいと思うようになります。
基地の存在そのものに反対する気持ちが芽生えたのです。

宮岡政雄さんもまた、仲間の意見に同調し、行動を共にします。


福島京子さん:
この基地機能というのはやはり、また戦争へと向かうひとつの道具となっている、ということに対して、
即この基地を撤去していくこと、基地に反対していくことが、平和を守る闘いであるんだということに、結びついていったんだと思うんです。


闘争が始まってから2年後の昭和32年7月、政府は、農民から借りていた基地内の土地を、強制使用するため、測量を始めます



それを反対する農民たちのもとに、労働者や学生たちが応援に駆けつけます。



この時事件が起きました。
200人あまりの人たちが、柵を壊し、基地に数メートル踏み込んだのです。


そして23人が逮捕、7人が起訴されました。
容疑は、日米安全保障条約に基づいて制定された、刑事特別法違反。


理由無く、アメリカ軍の基地に立ち入った場合、処罰されることが定められています。

昭和34年3月、東京地方裁判所で判決が下されます。
『全員無罪』
その理由は、国の政策を揺るがす内容でした。


安保条約に基づいて駐留する在日米軍は『違憲』
憲法9条の二項が禁じる、『戦力』に該当すると断じたのです。

当時、学生として砂川闘争に参加していた島田清作さんは、判決の衝撃を今も鮮明に覚えています。


島田清作さん:


憲法9条とか、憲法前文に書いてある平和の精神、それと、自分らがやってる戦争反対とか基地反対とかっていう運動が一体のものであり、
自分らのやってることが、憲法を守る運動でもあるんだっていうことを、まあ、改めて理解した



その年の12月、最高裁判所で、この判決は破棄されます
在日米軍は、9条二項が禁じる『戦力』にはあたらず、違憲とはいえないという理由からでした。


また、安保条約は政治の問題だとして、違憲か否かの判断は回避されました


しかし、東京地裁の判決以降、在日米軍や自衛隊の存在を憲法違反に問う訴訟が、各地で頻繁に起こされるようになります


こうした中で、憲法9条の理念が、国民に浸透していくことになったのです。

それは、池田内閣が、改憲・護憲論争に終止符を打つ、9ヶ月前のことでした。




スタジオ
松平アナウンサー:
まずこの砂川事件、砂川闘争の意義付けでございますね、それを古関さんはどういうふうにお捉えになりますか?

古関氏:
日本国憲法になって、9条との関係で、反対ということが言えるようになった、主張できるようになった
そればかりではなく、東京地裁で「違憲だ」という判決が出たわけですから、
それはやはり農民にとってみますと、9条というものがただ理想であるだけではなくて、現実に自分たちの農地とか、自分たちの生活権というものを守ってくれる
極めて現実的な権利規範というような形で、現れてきたんではないかと思います。



松平アナウンサー:
坂元さん、この反基地闘争の高まり、これは日米両国政府にどういう影響を与えたということなんでしょうか?


坂元氏:
日本政府もアメリカ政府も、こういう反基地運動というものを、サイグ?共産主義陣営が扇動し、それを利用し、保守政治の安定を揺さぶる危険な動きとみていました
アメリカ政府は、日本に中立主義的な傾向が強まったらどうしよう、こういう危惧が芽生えてくるんですね。


日本は、アメリカの冷戦政策にとって、非常に重要な基地を提供すると。
その日本の価値が失われるんじゃないかと。


そして実はこの反基地運動が、両政府に、安保改定の必要を強く意識されることになるんですね。



松平アナウンサー:
反基地、反戦闘争の高まりとともに、憲法9条をめぐる改憲・護憲の論争というのは、さらに加熱さを増すわけでありますが、
そうした中で、やがて国民の多くを巻き込んだ、戦後最大の闘争にそれは発展していくわけであります。


そしてみなさん、いよいよ『今日のその時』でございます。

つづく
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