坂田家は萩焼の始祖である李勺光(り しゃくこう)の流れをくむ家柄で、深川萩四家の一つです。
深川四家とは、坂田泥華以外に坂倉新兵衛、田原陶兵衛、新庄助右衛門の四窯元です。
1) 十三代 坂田泥華(さかた でいか)本名は一平: 1915年(大正4)~2010年(平成22) 享年94歳
① 経歴
) 山口県長門市深川湯元三ノ瀬で、十二代坂田泥華(本名:浩三)の長男として生まれます。
1933年 山口県立萩商業学校を卒業し、父泥華から伝統の家法を習得します。
1950年 父の隠居により、十三代坂田泥華を襲名します。
1953年 下関大丸で初の個展を開催します。
1956年 第五回日本現代陶芸展(朝日新聞社主催)で、初入選を果たし、以後連続五回入選します。
1961年 第八回日本伝統工芸展で「茶碗」が初入選し、以後連続入選します。
これを契機に茶碗作りに専念する様になります。
1962年頃より加藤土師萌の指導を受ける様に成ります。
1964年 日本工芸会正会員となる。
1965年 山口県芸術文化振興奨励賞を受賞。
1972年 山口県指定無形文化財に認定。
名古屋オリエンタル中村での個展の出品作品が、宮内庁に買い上となります。
1974年 迎賓館に水指を納入します。同年山口県選奨(芸術文化功労)を受賞します。
1975年 東京三越個展の出品作品が宮内庁に買い上げとなります。
1976年 日本工芸会理事に就任。
1981年 紫綬褒章を受章し、1987年 勲四等旭日小綬章を受章します。
1994年全国豊かな海づくり大会の際に山口県より陛下献上の茶碗を制作しています。
2004年 長男・慶造が早世した為に十四代坂田泥華を追贈し、自らは14代天耳庵坂田泥珠と号す。
② 十三代坂田 泥華の陶芸
本格的に陶芸活動が開始されたのは戦後の事で、すでに31歳に成っていたとの事です。
兵役に約10年間従軍し、九死に一生を得て復員します。更に10年間は基礎技術の習得に
費やされ、世に出て認められたのは、1957年の東京三越における個展と、翌年の名古屋
オリエンタル中村(現、名古屋三越)での個展であったと言われています。
) 井戸茶碗との出会い: 「泥華井戸」と呼ばれる程、独自の井戸茶碗の魅力を十分引き出し、
井戸茶碗を集中して製作しています。
その発端は、1957年に東京国立博物館で「有楽」井戸と出会い、その魅力に取り付かれ事です。
更に、1961年の日本伝統工芸展で、「茶碗」が初入選を果たし、より一層井戸茶碗に傾倒して
ゆきます。
) 井戸茶碗とは、桃山時代に持て囃された朝鮮半島よりもたらされた茶碗で、大井戸、青井戸、
小井戸、小貫入、井戸脇などに分類されます。萩ではそれらに倣った茶碗が作られています。
) 土は素地土に見島土を混ぜた物を使い、轆轤挽きにより、腰には数段轆轤目を付け、高台が
やや締まったバランスの取れた形にします。
釉は、風化長石と柞(いす)灰の調合により、高台の内外にカイラギを発生せます。
(尚、以前は貝殻釉でカイラギ表現しようとし、失敗したそうです。)
) 井戸茶碗の作品
「萩大井戸茶碗・山の井」(高9.1 X 径15.4、高台径6cm)(1978年)、
「萩大井戸茶碗・常盤」(高9 X 径15.4、高台径5cm)(1981年)、
「萩青井戸茶碗」(高7.3 X 径14.5、高台径5cm)(1981年)、
「萩割高台茶碗」(高8.1 X 径14.9、高台径5.9cm)(1981年)、
「萩小井戸茶碗」(高7.8 X 径13.9、高台径4.5cm)(1982年)などの作品があります。
) 剥離(はくり)釉: 素焼きした素地に化粧土を施し、更に素焼きしてから施釉し焼成する
方法です。一般の化粧掛けとは異なる景色(御本風の柔らかい斑文)が現れます。
「剥離釉窯変寸胴水指」」(高16.3 X 径17cm)(1978年)、山口県立美術館
「剥離釉窯変鶴首花入」(高23.5 X 径17.5cm)(1982年)などの作品があります。
) その他の作品
「萩寸胴一重水指」(高16.3 X 径16.3cm)(1981年)、「白萩窯変メ目水指」」(高16.7 X
径21.2cm)(1982年)、「白萩四方皿」(高9 X 径36cm)(1975年)等の作品があります。
次回(山田山庵)に続きます。