わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代陶芸121(徳田 八十吉1 )

2012-05-21 21:47:59 | 現代陶芸と工芸家達

色絵磁器の九谷焼は、加賀百万石の城下町・金沢の文化を象徴する焼き物です。

その大半は、石川県能美郡寺井町で作られているとの事です。

徳田 八十吉は、磁器に上絵を施す九谷色絵の伝統継承者として、明治の初代~平成の四代目八十吉

まで、続いている名跡です。

1)  初代徳田 八十吉(とくだ やそきち): 1873年(明治6年)~ 1956年(昭和31年) 号は鬼仏。

   古九谷・吉田屋の再現に生涯を賭けた、九谷焼の最高峰の作家として評価されています。

   (吉田屋については、後述の注を参照して下さい。)

   1953年(昭和28年) 九谷焼上絵付の技術で、文化財保護法により国の無形文化財(人間国宝)に

    認定されました。

     注: 古九谷焼とは江戸初期に、加賀藩の支藩である大聖寺藩祖の前田利治が、後藤才次郎に

      命じて、肥前有田から陶工を招き、色絵磁器を作らせたのが始めと言われています。

      古九谷焼は、釉と文様により二種類に分類されます。

      1) 五彩手: 赤、青、紫、黄、緑などの上絵具で、山水、花鳥、動物、魚、人物などの文様を

         描いています。

      2) 青手古九谷: 緑釉の地に黄、緑、紫、青(藍)などで濃厚な文様を付ける作品です。

 ①  経歴

   ) 石川県能美郡小松大文字町(現小松市)で、染物屋の添田伊助(屋号は亀屋)の長男

       として生まれます。 少年時代に家業の染色を手伝い、日本画を初め荒木探令(たんれい)に、

       後に山本永峰に学びます。

      1890年 義兄の松雲堂松本佐平(佐瓶)の下で、九谷焼の絵付を修業します。

      1916年 石川県美術展覧会で一等を取ります。

      1922年 東京平和博覧会で、銅牌を受賞します。東宮殿下御成婚で、石川県より花瓶を

       製作し、献上しています。

      1922~24年 石川県工芸美術展覧会で 連続最高賞を受賞します。

      1928年 第24回商工省展の出品作品が、朝香宮家に御買上となります。

      1931年 宮内省より、獅子置物が買上となります。

      1933年 久邇宮若宮、同妃殿下 御来松、花瓶、香合を製作し献上します。

      1947年 天皇陛下御来県時に、県より飾皿の製作依頼を受け献上します。

      1953年 文部省より無形文化財(人間国宝)の指定を受けます。

      2006年  初代 徳田 八十吉展 特別展 歿後50年 「古九谷吉田屋の再現にかけた 生涯」が

       小松市立博物館で開催されました。 

 ②  初代八十吉の陶芸

     九谷焼の色釉の調合技法や顔料の研究に努め、古九谷風、吉田屋風、粟生屋風の色絵と

     ビロード釉、碧明釉(緑系)、欽朗釉(黒系)、深厚燿変など独自の釉を開発し、深厚釉を作ります。

     特に 吉田屋窯風の作風を得意としました。

      注:  吉田屋は江戸中期に、100年を経て古九谷を再興させます。

         赤以外の黄、緑、藍、紫の四彩「青手古九谷」の技法が息づき、豪快華麗な古九谷とは

        対照的に、緻密かつ軽快な筆遣いで、繊細な大和絵的なモチーフにも個性が発揮されます。

2)  二代目徳田八十吉 魁星: 1907年(明治40年)~ 1997年(平成9年)

  ①  経歴

   ) 石川県能美郡辰口村宮竹で、醤油商の雲戸家の五男として生まれます。

     1923年に初代の養子となり師事します。(初代は病で子供を失たとの事です。)   

     1924年 小松中学校三年生生(15歳)の時、商工省工芸展覧会で初入選を果たし、翌年と

      翌々年に石川県工芸奨励会展覧会に入選し、会員に推薦されます。

     1927年 東京美術学校(現、東京芸大)長の正木直彦氏が古九谷研究の為、小松を訪問します。

      その際初代が案内役を務めます。その縁で正木氏と会い、陶芸理論を学び、日本画を

      学ぶ様に助言を受けます。

      そこで、石川県商品陳列所図案科の主任技師、浅野廉に図案を学び、日本画は玉井敬泉氏に

      学びます。

   1931年 小松町の産業研究生として、京都陶磁試験所で勉強する事になります。

   1936年 正木氏の紹介で富本憲吉氏の工房を訪ね、以後7年間、陶絵を学びます。

   1938年  富本憲吉氏が色絵磁器の研究の為、小松・江沼地区を訪れ会う事が出来ました。

    その際「一日一枚写生をし、一年分を持って上京する事」と約束をします。

   1939年 約400枚の写生画を持って上京します。そこで厳しい批評にあいます。

    「単に物を写すのではなく、一本の線や点を書くだけでも、それらは筆で太し細しを表現するように、

    抑揚のある心で引け」 と批評され、これ以後彼の絵は一変したと言われています。 

   1956年 二代目徳田八十吉を襲名。九谷焼の近代化を推進して行きます。

   1958年 ブリュッセル万国博覧会で、グランプリを受賞します。

   1965年 日展審査員、1966年 日展会員、

   1988年 八十吉の名を長男に譲り百々吉を名乗ります。

    初期の頃の号は、魁星(かいせい=北斗七星の第一星)といいます。

 ②  二代目八十吉の陶芸

以下次回に続きます。

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