③ 有恒氏の釉裏金彩の技法
) 信楽の土を主体とした土を使います。磁器土を使うと、金の色が直に出過ぎて、玉虫色が
出ないといわれています。土物では金をを吸収してしまう為失敗も多いそうですが、金箔の
厚みや釉の掛け方、焼成の仕方によって色々と変化が出るとの事です。
又、陶土にする事で釉に貫入が入り易くなり、金が微妙な輝きになる利点もあるとの事です。
) 施釉した作品を高火度で本焼きし、その釉の上に漆と白玉とで調合した接着剤で、金箔を
貼ります。文様部分には厚手の金箔を、余白部分には薄手の金箔を散らして張ります。
線状の部分は、粗いヤスリで削った金の粉を筆などで、線描きします。
金箔の配置によって様々な文様を付ける事が出来、透明系の釉を通して金が浮き出て来ます。
) 低温で素地に金箔を焼付けてから、釉を掛けて焼成します。
釉は白玉(主に楽焼用の釉に使用)と珪石、長石、呈色剤の酸化金属を混合したもので、
低火度釉となります。
) 上記酸化金属で、酸化銅を用いると緑色に、酸化鉄を使うと黄色になります。
金属の配合量によって、ある程度濃淡を付ける事も可能です。
緑を帯びた黄色を「萌葱(もえぎ)色」と呼び、明るい黄色を「萌黄(もえぎ)色」と呼んでいます。
(呼び方は同じ音ですが、字が違います。)
) 一度の施釉と焼成では十分な色が出ず、2~3回繰り返すと、金と釉が混ざりあい、金色が
くっきり、又はほのかに輝き、奥行きのある色調に成るとの事です。
④ 有恒氏の作品
) 作品の種類: 大鉢、大皿、壺、香炉、香合、水指、酒気(ぐい呑み)などの作品があります。
) 作品の文様: 蔦(つた)、野葡萄、羊歯(しだ)、いたどり、露草などの他、野草や雑草を
取り上げています。
) 作品としては、「萌黄釉裏金彩鉢」(高9.2 X 径25.2cm)1961年、、「萌黄釉裏金彩花瓶」
(高35.3 X 径23.5cm)1965年、、「釉裏金彩月桂樹文壺」(高28 X 径25.2cm)1973年,
「釉裏金彩蔦文鉢」(高10 X 径41cm)1973年: 石川県美術館。「萌黄釉裏金彩葡萄文花瓶」
(高34 X 径24cm)1975年、「釉裏金彩緑蔭文鉢」(高8.3 X 径35.3cm)1976年
「緑釉裏金彩鉢」(高10.3 X 径35cm)1974年、「紫釉裏金彩穂波文香炉」(高10.5 X 径11.5cm)
1975年、「釉裏金彩野葡萄文花瓶」(高24.5 X 径25.5cm)1981年等の作品があります。
2) 竹田恒夫(たけだ つねお): 1932年(昭和7)~1996年(平成8)
父・有恒が独創した釉裏金彩を継承し、発展させました。また、九谷色絵も手掛けています。
① 経歴
) 九谷焼の竹田有恒の長男として、石川県金沢市に生まれます。
金沢市立工業高校を卒業後、電気商に勤務しながら、父の絵付けの手伝いをしていました。
1955年 父の病の為、この年より本格的な陶芸生活に入ります。
有恒に師事して釉裏金彩、九谷色絵などの修行生活を送ります。
同年 石川県現代美術展に初入選を果たし、陶芸界にデビューします。
1970年 第十七回日本伝統工芸展で、初入選し、以後連続入選します。
1973年 日本工芸会陶芸部正会員になります。
1975年 第二十二回日本伝統工芸展で、日本工芸会賞を受賞します。
1976年 第二十三回 日本伝統工芸展で、「釉裏金彩野葡萄文鉢」が入選します。
1979年 第二十六回 日本伝統工芸展で、 「萌黄釉裏金彩飛鳥柘榴文大皿 」が入選。
1980 朝日陶芸展で、'80賞を受賞します。
1983年 第三十回 日本伝統工芸展で、「釉裏金彩ざくろ文鉢」が入選しています。
同年 伝統工芸士に認定されます。
その他、石川県現代美術展北国賞・最高賞、伝統九谷焼工芸展大賞・優秀賞、日本陶芸展
など多くの場で活躍しています。
② 竹田恒夫氏の陶芸
父有恒氏が王朝風や琳派風の優美な作風なのに対し、金彩の他に染付けを加え、濃度の濃い
緑釉や色釉を施し、色彩に変化をもたらしています。
次回(小野珀子)に続きます。