愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

土井城 岡崎市

2013年09月15日 13時27分27秒 | 岡崎市

土井城址の近くの誓法寺

土井城 城主本多氏とは
 「松平記」で、家康側として次に登場する武将は土井城の本多備後守広孝です。ネットで調べたところ、本多氏は、初代本多定正から2代正吉-3代正経を経て、1497年松平長親に仕えた4代彦三郎秀清が土井郷を与えられ、5代清重を経て、6代信重は松平信忠・清康に仕えて、土井に城を築いて住んだらしいです。1529年吉田城の牧野伝蔵を攻めた時に6代信重は戦死し、7代広孝に継がれました。1527年土井に生まれた広孝は家康より15歳年上で、父信重が亡くなった時は3歳でしたが、相続して土井城に住み、松平広忠に仕え、広孝を称した。その後、家康に仕え、1561年「東条城攻め」や1563年「三河一向一揆」、1564年「田原城攻め」でも戦功を挙げたそうです。同年、田原へ移り、土井城は廃城となったそうです。

誓法寺しか分からなかった
 実際に行ってみましたが、どこにあるのかさっぱり分かりませんでした。残念。近くの誓法寺に行ってきました。

西尾城 西尾市

2013年09月15日 08時40分43秒 | 西尾市
家康側の武将たち
 「松平記」では、酒井将監忠尚までで、一揆に与した武将(反家康側の武将)の列挙を終わり、つぎに家康側の武将を記述しています。

「岡崎の勢力は、竹谷(たけのや・宝飯郡)の城の松平玄蕃頭清善(げんばのかみ きよよし)<5>、形の原(宝飯郡)に松平紀伊守家忠(きいのかみ いえただ)<6>、深溝の松平主殿助伊忠(とのものすけ これただ)<7>が、土呂本宗寺、針崎勝鬘寺、東三河(?)両三人衆の敵に挟まれて昼夜相戦っている。西尾城には酒井雅楽助(うたのすけ)が在城して、野寺荒川(甲斐守義広)と戦っている。」

 竹谷、形原は、いずれも現在は蒲郡市です。まだ訪れていないので、ぜひ行ってみたいと思っています。深溝は、現在の幸田町です。以前紹介したところです。この家康勢3家が、土呂本宗寺、針崎勝鬘寺と戦っていたようです。

西尾には酒井雅楽助
 また、西尾には、上宮寺に検断を仕掛けて一揆のきっかけとなった酒井雅楽助がいて、野寺荒川と戦っていたようです。野寺荒川とまとめて記述してあるので、野寺本證寺と八ツ面の荒川義広が連絡を取り合って、または荒川義広が野寺本證寺にたてこもっていたと思われます。

西尾市歴史公園
 西尾城は、歴史公園として整備されていました。


歴史公園整備中
 図の現在地(右下)の右側は工事中で、歴史公園としてのものが建設されるようです。



 重機が見えます。平成26年1月23日にはこの工事が終わり、なにかここにできると思われます。何ができるのか楽しみです。

鍮石(ちゅうじゃく)門
 公園に入ると、門がありました。鍮石(ちゅうじゃく)門というそうです。



 案内板によれば、「大給松平氏が入城した際、江戸城の本丸御殿の前門であった鍮石(ちゅうじゃく)門の名に因みこの文字を充てた」そうです。なかなか頑丈そうな立派な門でした。

丑寅櫓

 丑寅櫓です。案内板によれば、本丸隅櫓の一つで、他の櫓より高いところにあったので、物見櫓として使われていたそうです。

姫丸址



 姫丸辰巳櫓址。案内板によれば、「姫丸は、南・東・北は堀により、西は内堀により囲まれる狭小な縄張りで、本丸表門前の馬出しの役割を担っていた。そして、西尾資料館の北方東側に姫丸門があり、鍮石門前の広場と通じていた。木立の茂る部分は庭園風に改造されているが、南東隅の平坦な場所に辰巳櫓があった。隅櫓は、東西7.3メートル、南北5.5メートル、高さ8.2メートルの二重の建物である。」


姫丸門址

お堀、井戸跡

本丸のお堀


井戸の址

東之丸太鼓門址



 歴史公園の東隣は西尾小学校になっています。ここも西尾城の一部だったようです。ちょうど校門のところに案内板があり、ここが太鼓門であったことが分かりました。

酒井雅楽助正親、重忠が居城
 さて肝心の酒井雅楽助ですが、パンフレットに「西尾城主一覧」があり、酒井雅楽助は永禄4年(1561年)から城主であることが記載されていました。次の酒井与四郎重忠(正親の子ども)が天正4年(1576年)から城主であると記載されているので、15年間城主だったことになります。その頃のお城は、こんなお城ではなくて、もっと質素なお城だったと思われます。なお、子どもの重忠は、途中で関東の知行地をもらって引っ越したようです。