愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

福釜城 安城市

2013年09月22日 09時26分25秒 | 安城市
福釜城主松平家栄地

福釜松平氏栄地の石碑

 三河一向一揆で、家康側に立って一揆勢と戦った松平右京亮(松平親俊)は、福釜松平氏の3代目です。 
<福釜松平氏> (始祖)親盛-親次-親俊-康親・・・・

宝泉院
すぐ隣は「宝泉院」です。


西岸寺

 宝泉院は浄土宗なので、福釜松平氏とはうまくいきそうです。ところが、このすぐ近くに真宗大谷派の寺院を発見してしまいました。「西岸寺」です。西岸寺といえば、京都に有名なお寺がありますが、その西岸寺と関係があるのでしょうか。以下、安城市のホームページです。
 真宗大谷派の寺で、松林山(しょうりんざん)清秀院(せいしゅういん)西岸寺(さいがんじ)と言います。本山(ほんざん)である京都の東本願寺から拝受(はいじゅ)(1667年)した高さ56cm余りの阿弥陀如来立像(あみだにょらいりつぞう)がご本尊です。開基(かいき)は1489(延徳(えんとく)元)年松平玄番と、過去帳に記録が有ります。文化財は、室町時代の絵画で「絹本著色方便法身尊像(けんぽんちゃくしょくほうべんほっしんそんぞう)」が市の指定に登録されています。

開基が松平玄番
 まてまて、開基が松平玄番だって?1489年だって?松平玄番といえば、三河一向一揆でも登場する竹谷松平氏の松平玄番?1489年というので、三河一向一揆の74年前です。三河一向一揆発生以前に松平氏で、松平玄番と名乗る武将がいたのかもしれません。どちらにしてもこのお寺は真宗大谷派ですが、松平と深い関係がありそうです。

松平氏の墓
少しはなれたところに福釜松平氏の墓がありました。



形原城 蒲郡市

2013年09月22日 06時01分22秒 | 蒲郡市
 形原城は三河一向一揆で家康側松平氏の形原松平氏松平紀伊守家忠(きいのかみ いえただ)のお城です。

形原城の遠景。形原城を海のほうから見た。手前の家は関係ありません。奥の小山が形原城です。


入り口は、稲荷神社の鳥居でした。左の石碑に「古城 稲荷社」と記されていました。


形原城址の看板

お妙塚

 頂に着く前に「お妙塚」というものがありました。詳しくは、案内板にあるとおりです。言うことを聞かないわがまま君主を守った乳母のようです。説明文で、「又七郎」が、途中で「又三郎」に変わっているのは、何かの間違いではないかと思いました。


曲輪跡?
 「お妙塚」は、道の左側にありましたが、右側は少し広い平地になっていました。これはいわゆる曲輪ではないかと思いました。

曲輪と思われる平地。左上は頂です。

形原城址

「形原城址」の石碑


「古城稲荷社」の社

疑問 形原松平氏の収入源
 ここで、疑問がわきました。蒲郡(形原)は、海の近くでたぶん産業としては漁業で栄えた地域と思われます。とすると、形原松平の収入源は米というより水産物だったのではないか。米も収入源としてあったとしても、水産物の割合も高かったのではないだろうか。ということ。さらに、戦のときの兵隊は漁師だったということだろうか。

形原城址関連地図

 地図を見ると、「東古城」(形原城址のあるところ)「北古城」「南古城」というお城に関係した地名が見られました。

光忠寺
 近くに形原松平氏のお墓があるというので、立ち寄りました。「光忠寺」です。

ものすごい松がありました。(写真左側)


お墓は、お寺を入って左側に立派に区画されていました。