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二の木戸跡の堀切
福井県敦賀市で、若越城の会の学習会がありました。そこに参加するために、敦賀市まで来ました。せっかく来ましたので、近くの金ヶ崎城に行くことにしました。
織田信長と金ヶ崎城
金ヶ崎城は、元亀元年四月越前攻めに入った織田信長が浅井長政の反逆で命からがら京都に引き返した話が有名です。(信長公記)
以前、疋壇城を紹介した際にも引用しました。(疋壇城 福井県敦賀市(1))
信長公記 巻3「越前手筒山攻め落とせらるるの事」より
彼の城、高山にて、東南峨々と聳えなり。然りと雖も、頻に攻め入るべきの旨、御下知の間、既に一命を軽んじ粉骨の御忠節を励まれ、程なく攻め入り、頸数千参百七十討ち捕り、並びに金ヶ崎の城に、朝倉中務大輔楯籠り候。翌日、又、取り懸け、攻め干さるべきのところ、色々降参致し、退出候。引壇の城、是れ又、明け退き候、即ち、滝川喜右衛門、山田左衛門尉両人差し遣わされ、堀・矢蔵引き下ろし、破却させ、木目峠打ち越え、国中御乱入なすべきのところ、江北浅井備前、手の反覆の由、追々、其の注進候。然れども、浅井は歴然御縁者たるの上、剰へ、江北一円に仰せ付けらるるの間、不足あるべからざるの条、虚説たるべしと、おぼしめし候ところ、方々より事実の注進候。是非に及ばざるの由にて、金ヶ崎の城には、木下藤吉郎残しをかせられ、・・・・
彼の城とは、天筒山城(てづつやまじょう)です。信長は、高山難所の天筒山城を落とし、金ヶ崎城、引壇城も敵を退去させ、いよいよ越前中央部へ侵攻しようとしたときに、背後の北近江の浅井氏が反逆したことを知らされ、「是非に及ばず」の名ゼリフで京都に撤退するわけです。
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Yahoo地図より金ヶ崎城跡、天筒山城跡付近の地形。疋壇城は、ここより10キロほど南の山の中にあります。
金ヶ崎城跡へは、金崎宮の左の道を登っていきます。
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しばらく登ると、左手に敦賀湾が見えました。
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尊良親王の墓所
途中、「尊良親王(たかよししんのう)御墓所見込地」と言うのがありました。尊良親王とは、南北朝騒乱期の後醍醐天皇の子どもです。南北朝騒乱期のときの金ヶ崎の戦いで、自害したそうです。
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尊良親王の墓
この戦いは、北朝方の越前守護斯波高経(しばたかつね)、高師泰(こうのもろやす)らが、1337年この金ヶ崎城に籠もる南朝方、新田義貞、新田義顕(にったよしあき、新田義貞の長男)、脇屋義助(わきやよしすけ、新田義貞の弟)、洞院実世(とういんさねよ、公家)、後醍醐天皇の息子尊良親王、恒良親王らを攻め、北朝方が勝利した戦いです。(ウィキペディア)
新田義貞、脇屋義助、洞院実世は事前に脱出しましたが、尊良親王は自害し、恒良親王は捕らえられてしまいました。
その尊良親王の墓所と言うことでしょうか。
月見御殿
墓所を通り過ぎ、どんどん登っていきますと、やがて頂に来ます。「月見御殿」です。
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月見御殿は、元南北朝時代の金ヶ崎城の本丸があり、戦国時代には武将たちがここで月見をしたそうです。月見と言うより敦賀湾の海上交通の見張り台という感じがしました。
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月見御殿からみた敦賀湾。右に見えるのは、敦賀セメントだそうです。