愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

五葉城跡(1) 新城市

2017年06月20日 16時22分36秒 | 新城市
ずいぶん前になりますが、4月30日に五葉城跡に行きました。

五葉城、月ヶ谷城
五葉城は、「浅野文庫 諸国古城之図の世界」(財団法人広島城)によると国人領主西郷氏が居城としたとあります。一方で、同じ文書で西郷氏は市場城に居住し、月ヶ谷城を詰めの城としていたとしています。市場城、月ヶ谷城はもう少し南の方の地域です。西郷氏が五葉城も月ヶ谷城も居城していたとすれば、時代が違うのかもしれません。

西郷氏関連のお城(五葉城、萩平山城、月ヶ谷(わちがや)城)の位置

さて、西郷氏については、当ブログ「萩平山城址 豊橋市」(2017年3月)で簡単に紹介しましたが、もう少し詳しく紹介します。(参照 ウィキペディア)

西郷氏
①正員(まさかず) 今川家に属し月ヶ谷城に居住していました。享禄2年(1529)松平清康が吉田城、享禄3年(1530)宇利城を攻めた時には松平清康に附きました。松平清康が横死した後は再び今川家に附きました。
②正勝(まさかつ) 西郷正員の後継。今川義元が永禄3年(1560)桶狭間で敗れると、徳川家康の調略に乗り、今川氏を見切り、菅沼定盈(野田城)、設楽貞道らとともに徳川家康に属しました。そのため永禄4年(1561)龍拈寺で吉田城代小原鎮実(今川側)が、東三河国人で徳川に寝返ったもの人質を処刑しました。
③清員(きよかず) 西郷正勝の子。永禄5年(1562)に、今川勢に月ヶ谷城、五本松城を攻められ、父の正勝、兄の元正は討ち死にしてしまいました。人質として岡崎にいた清員は、家康から軍勢を与えられ、今川勢に仇討ちをし、見事今川勢を退けたそうです。(寛政諸家譜)そこで家康は清員に元の領地を与えることにしましたが、清員はこれを拒み、兄元正の子義勝に与えるべきと主張したそうです。その後清員は家康麾下の将として武田軍と戦いました。

西郷氏家系図

五葉城と高城(たかつき)
また、「諸国古城之図」では、五葉城と菅沼定盈が造ったという高城(たかつき)は別のものとしていますが、「参河名所図絵」には、同じものとして紹介されているそうです。

三河八名 五葉(「諸国古城之図」より)

さて、五葉城跡は五葉湖からから登ります。
しかし、なるべく時間を稼ぎたいこともあり、途中車で上がれるところまで上がりました。すると、3分の1ぐらい登ったところにフェンスがあり、それ以上は登れなくなっていました。フェンスの脇に車を何台か停めるスペースがありましたので、そこに停めさせていただくことにしました。