愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(7) 松平記

2022年01月06日 11時03分18秒 | 松平記

松平記p7

翻刻
ともに今川殿へ降参被成、今川義元いやいや只今ご一味有
てと三河衆にすすめられ、ややもすれハ尾州一味被成候
間、此次てにとり奉るへしとて吉良殿を駿河へ呼申、やふ
田と云所に置被申し事、今川殿威勢つよきゆへ也
一 去程に廣忠を今川殿御慟(なげき)深くして御加勢あり。三河のも
ろの城へうつし被申、岡崎に有し譜代衆内膳殿にしのひ
て各々参り、何とそ岡崎へ入申さんと致す。此由内膳聞て
大久保新八と云者を呼て伊賀八幡につれて行、社檀の中
にて廣忠を岡崎へ入申したく仕間鋪由、七枚の起請をか
かせたる。其外成瀬八郎に八国甚六郎、大原左近衛門、大久保

現代語
(東西吉良氏)ともに今川殿に降参した。今川義元は、「今、味方になる者があると、三河衆にすすめられた。もしかすると尾州織田の一味になるかも知れないので、ついでに味方につけておこう」と、吉良持廣を駿河に呼び、松平広忠を薮田という所に置かれた。これは今川殿の威勢が強いゆえである。
一 さて、廣忠に今川義元は深く同情し、兵を付けて三河の室城に移した。岡崎にいた譜代衆は松平内膳信定の目をしのんで、何とかして廣忠を岡崎城に戻そうとしていた。これを松平内膳信定が聞いて、大久保新八を伊賀八幡宮に連れて行き、社檀において松平廣忠を岡崎には入れさせない旨の起請文を七枚も大久保新八に書かせた。その他に成瀬八郎、八国甚六郎、大原左近衛門(らにも起請文を書かせた)

コメント
全体を通して、今川と織田の勢力争いに松平が巻き込まれ、内部対立が起きているように描かれています。廣忠の父である清康(岡崎衆)はもともと今川派のようであり、廣忠はそれでもって今川に助けを求めている節が見られます。廣忠を追いやり、岡崎に入れまいとする内膳(安城衆)は、清康暗殺前後の動きから織田方と通じているように感じられます。
大久保新八は、忠俊のことで「三河物語」の著者大久保彦左衛門忠教の伯父にあたります。宮城谷昌光「新三河物語」では、大久保一族のドン的な存在になっています。起請文を7枚も書いたということは、よほど神に誓っていたということです。神仏の力を信じていた当時としては、大久保新八は廣忠に味方ができないように感じられます。果たしてこの後どうなるのか?