愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

星崎城 名古屋市南区

2022年01月16日 07時33分44秒 | 名古屋市南区
花井右衛門尉兵衛は信長の家臣か、山口左馬助の同心か
桶狭間の戦いの前に、山口左馬助が謀反を起こし、織田から今川に寝返ったという話があります。山口左馬助は、鳴海の城に息子の山口九郎二郎を入れ、笠寺に砦を築き、かづら山、岡部、三浦、飯尾、浅井の5人を置き、中村に砦を拵え、そこに立て籠りました。(「信長公記」)。「豊明市史(桶狭間の戦い)」を調べていると、この件で織田信長が反撃のため、天文24年2月5日に山口に同心した星崎、根上の者の領地没収のための調査を命じる文書が掲載されていました。

星崎根上之内、今度鳴海江同心之もの共、跡職、悉為欠所上者、堅可遂糾明者也、仍如件
天文廿四     上総介
二月五日      信長(花押)

  一雲軒
  花井右衛門尉兵衛殿


この文書は、宛名が花井右衛門尉兵衛となっています。つまり、花井は信長の家臣であったわけです。信長は、花井に領地没収の調査を命じているのです。

ところが、この花井を調べていくうちにウィキペディアで「星崎城」の項目があり、「鳴海の豪族だった花井右衛門兵衛がここを居城にした。山口教継(左馬助」の謀反により、花井右衛門兵衛の領地が織田信長に没収され、岡田直教が城主になった。」とありました。脚注に名古屋市南区のHPがありましたが、そのHPに花井の記述はありませんでした。また、参考文献として「尾張名所図会第5巻星崎古城」とありましたが、そこにも花井の記述はなく、どちらも星崎城は岡田直教からの記述になっていました。
ということは、ウィキペディアの、上記史料の誤読かもしれないと思いました。