松平記p10
翻刻
一 御一門岩戸殿御死去被成、其跡可継御子なくして御知行
蔵人殿横領被成、板倉已下岩戸衆皆蔵人殿に付申候。蔵人
殿廣忠へ大忠被成候間、是程の御加増ハ有ても大事なし
とて岡崎御年寄中かまハす又無程蔵人殿御弟十郎三郎
殿御死去被成、是も御子なくして御知行蔵人殿横領被成
阿部大蔵ハせかれ清康を討申たる者とて蔵人殿御にく
ミ有。又内々御家老中相談致しけるハ蔵人殿御知行に両
跡目を合せて御支配被成候得ハ、同心被官合て岡崎衆に
少なくてハ、不違〇清康御幼少の時伯父内膳殿大勢にて
岡崎の為に代々しやくの虫と成給ひし事にこりたり。御
現代語
一 御一門である岩戸殿(岩津松平家)が亡くなられたが、その跡を継ぐべき子がなく、松平蔵人信孝殿が、是を横領した。板倉以下岩津衆は松平蔵人信孝殿に異議を申したが、蔵人信孝は、「廣忠に大きな恩があるので、これぐらいの加増は問題がない」といって、岡崎の年寄りたちに耳を貸さなかった。またほどなく蔵人信孝殿の弟十郎三郎康孝殿も亡くなり、これも子どもがなく、知行地を蔵人信孝殿が横領した。阿部大蔵に対しては、せがれが清康を討ったことで、蔵人信孝殿は憎んでいた。また内々で御家老衆が相談するには、蔵人信孝殿が岩津と弟保孝殿の両知行地を合わせて支配することになれば、同心・被官を合わせても岡崎衆は少なくなり、先に清康が幼少の時伯父の松平内膳信定が大勢になって、岡崎にとって「癪の虫」(禍の源)となったことの再現である。
コメント
9ページで問題にした酒井左衛門尉忠次の謀反の話は途中で切れて、松平信孝の横領事件の話になります。
この信孝は、廣忠が岡崎に帰る際に手助けをしたようです。そのことを恩に着せて所領を横領したという話です。元々信孝は、清康の弟ということもあり、清康が森山で横死した後、松平内膳信定を抑えて、廣忠の岡崎帰還に一役買っていたようです。しかし、領地が廣忠より大きくなったため、廣忠の家臣たちが内膳信定の再現とかなり問題視していたことが分かります。