松平記p8
翻刻
新八起請文を破り清康御御弟松平蔵人、同十郎三郎殿に相
談し本城の当守に御座候蔵人殿を湯治に御上り候へと
て有馬へやり、其当守に廣忠を本城へ引入申番衆の石川
長右衛門兄弟を打取、岡崎の城を取返し候也。廣忠十三に
て伊勢へ御のき、十五の年駿河へ下り、其秋もろへ入、十七
の年天文六年六月朔日岡崎へ御帰国被成、但御入城ハ同
廿五日也。日来内通の御譜代衆皆々来り加勢申、中々内膳
方より手を出事ならず、御隠居も御よろこひ有。各々御肝
煎有て内膳殿と六月八日に御和睦被成、内膳殿も岡崎へ
出仕被成候。然とも安定の城ハ織田弾正殿衆持、佐々木松
(平三右衛門ハ~)
現代語訳
(大久保)新八は、起請文を破り、清康の弟松平蔵人(松平信孝)、松平十郎三郎(松平康孝)に相談し、岡崎城の当守である松平信孝を温泉へ行かれてはと勧め、有馬温泉へやり、その当守に松平廣忠を岡崎城に引き入れ、岡崎城を守っていた番衆の石川長右衛門兄弟を討ち取り、岡崎城を取り返した。廣忠は、13歳で伊勢に退き、15歳に駿河に下り、その秋にはもろへ入られ、17歳の歳天文6年6月1日、岡崎に帰られた。但し、御入城は6月25日である。日頃廣忠と内通していた譜代衆は岡崎城に来て加勢し、松平内膳信定はなかなか手出しができなかった。隠居の松平長親もよろこび、各家臣たちの世話焼きもあって、6月8日に内膳信定と廣忠は和睦することになった。内膳信定は岡崎城に出仕することになった。しかし、安城の城は、織田弾正忠信秀衆が持ち、佐々木松平平左衛門は~
コメント
大久保新八忠俊は、起請文を破ってしまいます。これは、大変なことです。大久保忠教「三河物語」では、書けと言われれば、何度でも書いてやると豪語しながらも、「起請ノ御罰トカウムリテ、今生にては、白懶・黒懶ノ疫ヲ請、来世にては、無間之住処トモナレ。子供之母ヲ牛裂ニモせバせヨ。倅ヲ八ツ串ニモサゝバサせ。何度起請ヲ書せ申共、一度は広忠に御本居ヲ遂ゲサせ申す」と神仏の罰があることを覚悟していることが記されていました。(「白懶・黒懶の疫」とは、肌の色が白くなる懶病と黒くなる懶病のこと 「無間の住処」とは、地獄のこと)日本思想史大系26「三河物語・葉隠」より
廣忠の岡崎入城は、今まで無血開城のように思っていましたが、番衆である石川長右衛門兄弟を討ち取っての出来事でした。これは当守であった松平信孝の家来なのか、松平内膳信定の家来なのか分かりません。かわいそうに石川兄弟が討ち取られているのに、信孝も信定も何の反応もなく、廣忠と和睦してしまったようです。廣忠派の圧力勝ちでしょうか。信定は、改めて廣忠の形式上の家臣となったようです。