長沢城址とされる長沢小学校
9月28日に長沢城を訪れました。午後2時ごろでしたが、ちょうど運動会をやっていて終了した直後のようでした。多くの人たちが門から出てきていましたので、時間を置いてまた来ることにしました。午後3時半頃に来たときは、人の姿はなくなっていました。
一里塚発見
長沢小学校に東の方、音羽蒲郡インターのあたりから歩いていくと南の方に音羽川という川が流れていました。その川にかかる橋の袂に一里塚を発見しました。一里塚のあった道は、今は県道374号線ですが、昔の街道であったと思われます。
一里塚跡
意外と大きい長沢城
長沢小学校のまわりを歩いていると、グランドの南側に案内看板がありました。そこに長沢城の古図がありました。けっこう大きな城であったことが分かりました。また、城の中心は国道一号線の北側にある団地であることも分かりました。
長沢小学校にあった案内板
案内板の古地図
いざ、戦争があったときには、南側の山「御城山」に登り戦ったようです。
南側の御城山
分断された長沢城址
また長沢城は、国道一号線によって城跡が分断されているようです。国道一号線から長沢城址を見ると、南北に分かれていることが分かります。
南側の様子(中央は国道一号線)
北側の様子(右側は国道一号線)
城跡が新しい道で寸断されていたのは、名古屋市緑区の鳴海城がそうでした。
北側の団地の方に行ってみました。小高い丘になっていました。民家の中に長沢城址の石碑がありました。
東の守り長沢城
長沢城は、「東三河には長沢とこ井より東ハ駿河方也」と「松平記」にあるように、松平氏にとって東の守りとなっていました。ここに、松平信光の11男親則を始祖とする長沢松平家を置きました。
<系図>
松平信光-(始祖)親則-親益-親清-勝宗-一忠-親広-政忠-康忠-康直-・・・・
三河一向一揆のときは、8代目康忠のあたりです。
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