和田城は吉田城(豊橋市役所)の北東にあります。石巻山の近くです。
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和田城の場所
渡辺山城守茂と戸田茂睡
「参河国二葉松」に、この和田城についてのコメントがあります。「昔和田民部という武将が住んでいた。その後、渡部久左衛門が永禄年間に、同じく渡部の息子渡部図書助浄が元亀元年に、また同じく息子渡部山城守茂も住んでいた」ということです。
和田と言えば、和田義盛という鎌倉幕府の御家人を思い出しますが、関係ないようです。
また、渡辺と言えば、槍の名手渡辺半蔵守綱を思い出しますが、これも関係ないようです。
ただ、最後に出てきた渡辺山城守茂はネットで登場しました。山城守茂は父久左衛門の三男で姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、小田原攻め、関ケ原の戦い、大坂の陣等で功績があり、徳川忠長(家光の弟で幼名を国松と言った。家光と将軍後継を争ったが敗れる。後に不祥事を起こし改易される)の家臣となりました。
さらに、驚くことに江戸時代の歌人戸田茂睡と渡辺山城守茂がつながっていました。茂睡の父戸田監物(けんもつ)忠は、渡部山城守の養子となり、その息子が戸田茂睡だったのです。戸田茂睡の渡辺姓での名前を馮(たのむ)というそうです。父の監物忠の時に主君徳川忠長の改易があり、父と共に配流されます。そして父が死んだ後、伯父の戸田政次の養子となり、戸田姓を名乗るようになりました。
ところで、名前が「浄」とか「茂」とか一字なのは嵯峨流源氏の始祖が融で、それに倣って一字で通すことが伝承していたそうです。(渡辺守綱は2字なので、こっちが庶流で、茂が本家筋なのかもしれません)
さて、和田城は曹洞宗春興院の東の森の中にありました。実際に森の中に入り、見学しながら描いてみました。
和田城のイメージ図
森に入る前に春興院さんにあいさつに行ったら、溝について教えてくれました。春興院と森の間にある溝は、春興院さんが「竹が寺の敷地に延びてこないように」と掘ったものらしいです。おそらく、寺の北に東西に掘られている溝も竹の進出防止の溝だと思われます。
しかし、いったん森の中に入ると、素晴らしい堀がありました。結構深かったです。
堀
この堀は北に延びて崖となり、川の方につながっていました。さらに、堀の内側は土塁が回っていました。
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西側の土塁
土塁は春興院東の森をぐるっと一周していました。
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東側の土塁
東のはずれは道路ができていましたが、道路側に土塁があったことから、この道路は、堀だったのかも知れないと思いました。
東外れの道路
この道を隔てて、さらに東側にも森がありましたが、藪がひどくて、進入できず、やむを得ず見学をあきらめました。
和田城は見学できたところでは土塁が巡り、南西には虎口っぽい遺構もあり、単郭の中世の城郭なのかなあと思いました。整備すればきっと素晴らしいお城になると思いました。
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和田城の場所
渡辺山城守茂と戸田茂睡
「参河国二葉松」に、この和田城についてのコメントがあります。「昔和田民部という武将が住んでいた。その後、渡部久左衛門が永禄年間に、同じく渡部の息子渡部図書助浄が元亀元年に、また同じく息子渡部山城守茂も住んでいた」ということです。
和田と言えば、和田義盛という鎌倉幕府の御家人を思い出しますが、関係ないようです。
また、渡辺と言えば、槍の名手渡辺半蔵守綱を思い出しますが、これも関係ないようです。
ただ、最後に出てきた渡辺山城守茂はネットで登場しました。山城守茂は父久左衛門の三男で姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、小田原攻め、関ケ原の戦い、大坂の陣等で功績があり、徳川忠長(家光の弟で幼名を国松と言った。家光と将軍後継を争ったが敗れる。後に不祥事を起こし改易される)の家臣となりました。
さらに、驚くことに江戸時代の歌人戸田茂睡と渡辺山城守茂がつながっていました。茂睡の父戸田監物(けんもつ)忠は、渡部山城守の養子となり、その息子が戸田茂睡だったのです。戸田茂睡の渡辺姓での名前を馮(たのむ)というそうです。父の監物忠の時に主君徳川忠長の改易があり、父と共に配流されます。そして父が死んだ後、伯父の戸田政次の養子となり、戸田姓を名乗るようになりました。
ところで、名前が「浄」とか「茂」とか一字なのは嵯峨流源氏の始祖が融で、それに倣って一字で通すことが伝承していたそうです。(渡辺守綱は2字なので、こっちが庶流で、茂が本家筋なのかもしれません)
さて、和田城は曹洞宗春興院の東の森の中にありました。実際に森の中に入り、見学しながら描いてみました。
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和田城のイメージ図
森に入る前に春興院さんにあいさつに行ったら、溝について教えてくれました。春興院と森の間にある溝は、春興院さんが「竹が寺の敷地に延びてこないように」と掘ったものらしいです。おそらく、寺の北に東西に掘られている溝も竹の進出防止の溝だと思われます。
しかし、いったん森の中に入ると、素晴らしい堀がありました。結構深かったです。
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堀
この堀は北に延びて崖となり、川の方につながっていました。さらに、堀の内側は土塁が回っていました。
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西側の土塁
土塁は春興院東の森をぐるっと一周していました。
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東側の土塁
東のはずれは道路ができていましたが、道路側に土塁があったことから、この道路は、堀だったのかも知れないと思いました。
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東外れの道路
この道を隔てて、さらに東側にも森がありましたが、藪がひどくて、進入できず、やむを得ず見学をあきらめました。
和田城は見学できたところでは土塁が巡り、南西には虎口っぽい遺構もあり、単郭の中世の城郭なのかなあと思いました。整備すればきっと素晴らしいお城になると思いました。
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