渡辺政香「鴨の騒立」第3回 石御堂への動き
又加茂郡松平村に隆蔵というものがおった。これも知恵が働き、口のうまい男だったが、千蔵・繁吉の元に行き、
「騒動の話があるが、我等のような者では、頭となって計画をすることは難しい。願わくはご両人(千蔵・繁吉)が指図をしたほうがよい。」
と頼んだ。はじめからそのつもりであった二人だったので、さっそく隆蔵の意見に同意し、この企てを起こすことにした。
一説に、大田村信光寺で集まりがあり、そこでこの騒動を企てたという説もある。
また一説に、徒党三十人あまりが松平村隆蔵宅に相談に行った。しかし、隆蔵は下河内村辰蔵の宅に行っており留守であった。留守の女房が言うところでは、
「お前様方大勢が来ていただいたが、亭主は留守です。相談することがあれば、他でしてください。私の家では相談することはやめてください。」
と断ってきた。徒党の衆は、もっともだと、羽明村石御堂に集まり相談したそうである。
一説に、石御堂は滝脇村にあるという説もある。
いよいよ一揆の計画段階になります。
「鴨の騒立」では、要約すると以下のように話が広がり、石御堂へと動いていったようです。
①松平村の隆蔵が、九久平村の千蔵・繁吉に「指図」を依頼する。
②の1 大田村信光寺で、会合、一揆へ
②の2 はじめ松平村の隆蔵宅で会合したが、場所を変えて羽明村石御堂で会合した。
②の3 はじめ松平村の隆蔵宅で会合したが、滝脇村石御堂で会合した。
しかし、これらの記述は豊田市史では採用されず、中間に石亀坂での会合などがあったとされています。
以下、豊田市史の内容を要約します。
①9月16日、下河内村の辰蔵の家で、松平郷の柳助(隆蔵)、九久平村菅沼の繁吉が会合
②9月20日、松平郷の柳助の家に関係者が集合する。しかし柳助が集会の会場となることを拒否。一同は茅原村石亀坂へ移動する。参加者、下河内村の辰蔵、松平郷の柳助、勇、九久平村菅沼の繁吉、九久平村山中の吉蔵、北川向村の文六、仙蔵、平吉、林添村の弥平、切二木村の吉右衛門、三平など
③9月21日、石御堂に集結
なお、人物の名が食い違っています。
「鴨の騒立」松平村の隆蔵=「豊田市史」松平郷の柳助
九久平村の千蔵= 九久平村菅沼の仙吉
松平郷の柳助が自分の家で集会をやることを拒んでいますが、松平は領主松平太郎左衛門の屋敷があるところですから、そのお膝元で、このような物騒な集会をやったら、すぐに見つかりますし、ただでは済みません。また、一揆そのものも潰されてしまいます。そういうことを考えると、柳助またはその女房が、場所を変えてくれと言ったのは、もっともです。
石亀坂集会の主な参加者(豊田市史「天保4年割木騒動をめぐる村々」に加筆しました)
また、石亀坂集会では、何を、だれに、どのように要求するのかが話されています。(参考「豊田市史」)
要求する事柄(対象)
・米価を1両につき6,7斗にすること(米屋・酒屋)
・頼母子講を2年間休会すること(役所?)
・諸色(物価)を引き下げること(米屋・酒屋)
・年貢金納相場を1両につき、6,7斗にすること(役所)
頼母子講とは、一般に民間での金融的な組織となっていますが、松平地域では領主の松平太郎左衛門が親で、村単位で行っていたようです。領主財政が厳しくなり、借金が返せなくなるほどになっていたようで、頼母子講で得た金を財政の赤字に充てていたようです。また、これに高利貸しが加わり、利益を得ていたようです。頼母子講は、定期的に開催され、その都度百姓が掛け金をとられる仕組みだったので、2年間休会せよとは、飢饉、物価高騰の時節柄、頼母子講に出す金はないということからだと思います。
要求実現の方法(主張者)
・米屋・酒屋を打ち壊すと流言して、六所山で集会を持つ。仲裁・調停に応じる(辰蔵)
・酒屋・米屋と交渉する。交渉に応じない場合は役所に願い出る(柳助)
一揆の組織づくり
・内通者が出ないように、役所に「遠見」(見張り)を雇う
・内通者は、直ちに家を打ち壊す
・人数が少ないので、各村々に2~3人の参加者を募る(廻状を回す)
又加茂郡松平村に隆蔵というものがおった。これも知恵が働き、口のうまい男だったが、千蔵・繁吉の元に行き、
「騒動の話があるが、我等のような者では、頭となって計画をすることは難しい。願わくはご両人(千蔵・繁吉)が指図をしたほうがよい。」
と頼んだ。はじめからそのつもりであった二人だったので、さっそく隆蔵の意見に同意し、この企てを起こすことにした。
一説に、大田村信光寺で集まりがあり、そこでこの騒動を企てたという説もある。
また一説に、徒党三十人あまりが松平村隆蔵宅に相談に行った。しかし、隆蔵は下河内村辰蔵の宅に行っており留守であった。留守の女房が言うところでは、
「お前様方大勢が来ていただいたが、亭主は留守です。相談することがあれば、他でしてください。私の家では相談することはやめてください。」
と断ってきた。徒党の衆は、もっともだと、羽明村石御堂に集まり相談したそうである。
一説に、石御堂は滝脇村にあるという説もある。
いよいよ一揆の計画段階になります。
「鴨の騒立」では、要約すると以下のように話が広がり、石御堂へと動いていったようです。
①松平村の隆蔵が、九久平村の千蔵・繁吉に「指図」を依頼する。
②の1 大田村信光寺で、会合、一揆へ
②の2 はじめ松平村の隆蔵宅で会合したが、場所を変えて羽明村石御堂で会合した。
②の3 はじめ松平村の隆蔵宅で会合したが、滝脇村石御堂で会合した。
しかし、これらの記述は豊田市史では採用されず、中間に石亀坂での会合などがあったとされています。
以下、豊田市史の内容を要約します。
①9月16日、下河内村の辰蔵の家で、松平郷の柳助(隆蔵)、九久平村菅沼の繁吉が会合
②9月20日、松平郷の柳助の家に関係者が集合する。しかし柳助が集会の会場となることを拒否。一同は茅原村石亀坂へ移動する。参加者、下河内村の辰蔵、松平郷の柳助、勇、九久平村菅沼の繁吉、九久平村山中の吉蔵、北川向村の文六、仙蔵、平吉、林添村の弥平、切二木村の吉右衛門、三平など
③9月21日、石御堂に集結
なお、人物の名が食い違っています。
「鴨の騒立」松平村の隆蔵=「豊田市史」松平郷の柳助
九久平村の千蔵= 九久平村菅沼の仙吉
松平郷の柳助が自分の家で集会をやることを拒んでいますが、松平は領主松平太郎左衛門の屋敷があるところですから、そのお膝元で、このような物騒な集会をやったら、すぐに見つかりますし、ただでは済みません。また、一揆そのものも潰されてしまいます。そういうことを考えると、柳助またはその女房が、場所を変えてくれと言ったのは、もっともです。
石亀坂集会の主な参加者(豊田市史「天保4年割木騒動をめぐる村々」に加筆しました)
また、石亀坂集会では、何を、だれに、どのように要求するのかが話されています。(参考「豊田市史」)
要求する事柄(対象)
・米価を1両につき6,7斗にすること(米屋・酒屋)
・頼母子講を2年間休会すること(役所?)
・諸色(物価)を引き下げること(米屋・酒屋)
・年貢金納相場を1両につき、6,7斗にすること(役所)
頼母子講とは、一般に民間での金融的な組織となっていますが、松平地域では領主の松平太郎左衛門が親で、村単位で行っていたようです。領主財政が厳しくなり、借金が返せなくなるほどになっていたようで、頼母子講で得た金を財政の赤字に充てていたようです。また、これに高利貸しが加わり、利益を得ていたようです。頼母子講は、定期的に開催され、その都度百姓が掛け金をとられる仕組みだったので、2年間休会せよとは、飢饉、物価高騰の時節柄、頼母子講に出す金はないということからだと思います。
要求実現の方法(主張者)
・米屋・酒屋を打ち壊すと流言して、六所山で集会を持つ。仲裁・調停に応じる(辰蔵)
・酒屋・米屋と交渉する。交渉に応じない場合は役所に願い出る(柳助)
一揆の組織づくり
・内通者が出ないように、役所に「遠見」(見張り)を雇う
・内通者は、直ちに家を打ち壊す
・人数が少ないので、各村々に2~3人の参加者を募る(廻状を回す)
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