
山登りの仲間にも、詩吟の仲間にも耳が遠くなったり、目が見えにくくなった人が多い。かくいう私も、手元を見るのに老眼鏡が手放せない。買い物をする際、商品の説明書きを見るにはメガネ無しではほとんど不可能である。外出にはメガネを持たないことが多いので、商品の小さな説明書きを見る羽目になると、もう購入をあきらめてしまう。
谷崎潤一郎の随筆に「老いのくりごと」というのがあって、これを読むと文豪の世界が急に身近なものに感じられて嬉しくなる。谷崎は永井荷風が気に入った映画を必ず二度見る、という噂があることに関して、それは老人の眼には兎角見落としがあって、面白味が十分に呑み込めないのではないかと推測している。
谷崎自身の映画を見るときのことを、細かく書いている。
「私の諸器官がすっかり緩んでしまったのか、今年になってから覗きに行って見ると、発病以前に比較して、一層見おとしや聞きおとしすることが多い。事件の発展に極めて重要な関係のある動作が、ほんの一とコマしか写らなかったりすると、つい気付かないで見過ごしてしまい二度繰り返し見て始めて理解する。昔は英語の字幕でもゆっくり読めたのに、今では日本文でも、大概は全部読み終わらないうちに消えてしまふ」
映画の俳優や女優の名も顔は覚えているのに、名前がどうしても思い出せない。ついいらいらしてしまい、ネットを開いて名前を確認することもしばしばである。その時は、そうだこの名だと気付いて安心するが、一週間もするともう忘れてしまっている。本を読むときも、少し疲れてくると同じ行を何度も繰り返してしまう。それこそ、筋書きを辿るのに大切な行を飛ばしてしまっていることも一度や二度ではない。
この間、義母の家の不要品を片付けていると、『吉川英治全集』全34巻が出てきた。「三国志」や「水滸伝」、「新平家物語」、「太平記」などの長編ばかりだが、吉川英治の筆の運びは、読んでいて同じ行にとどまったり、飛ばして読むことはない。それだけ、物語の面白さにテンポがあり、老いてもなをそのテンポについていくことに喜びを感じることができるからかも知れない。