今日から2泊3日で朝日連峰以東岳の山行を計画していたが、台風などによる不順な天候のため中止となった。昨日までの蒸し暑さは去り、冷たい風が吹いている。ベランダのアサガオが洗濯竿を占領するように、きれいな花を咲かせている。「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」は加賀の女流俳人の詠んだ句だが、朝のベランダを見てふと思い出した。
八百屋さんの店頭に早生の蜜柑が並び始めた。高価でなかなか手を出すこともないが、食べると柔らかい皮と身の甘さに驚く。戦後まもなくは、蜜柑は貴重な存在であった。大抵は正月用に買うもので、木箱入りで買った。紀州みかんと温州みかんがあり、紀州の方が甘く効果であった。正月の鏡餅のお供えに乗せて、夕餉のひとときにみんなで蜜柑を惜しみながら食べた。
蜜柑の木箱は丈夫でさまざに利用された。勉強机などなかった時代で、蜜柑箱をさかさまにして蝋燭を立てて机がわりにしたことも懐かしい想い出である。大学の寮に入ったときは、蜜柑箱はもっと高度に利用された。机の脇に2列4段ほどに重ねて、隣の人を仕切る壁兼用の本箱となった。本のなかに埋まるようにして勉強する先輩の姿を見て感心したものである。
芥川龍之介の短編に「蜜柑」というのがある。横須賀始発の汽車のなかの光景であるが、登場人物は作者とひっつめ髪のひびだらけの頬の少女だけである。トンネルへ汽車が入ろうとするとき、少女が窓を開けようと動き出す。かたく固定して窓は少女の手ではなかなか開かない。やっと窓が開いたとき、窓からは汽車の吐く煙が入ってきて、作者の顔に吹きつけた。せき込む作者、注意しようとした瞬間、汽車はトンネルを抜けて踏切のさしかかる。そこには3人の小さな男の子が3人声をあげて手を振っている。
車内の少女はその子らを目がけて蜜柑を5つ6つ投げた。子らの頭の上にばらばらと蜜柑が天から落ちていった。夕空のなかに乱落する蜜柑の色。その光景を芥川はそんな風に描いているが、奉公先は向かう少女がおそらく餞別に友人か親戚からもらった蜜柑を踏切まで見送りに来た弟たちへ労を報いるために投げたもの、と推測している。車内での少女の行動を迷惑に思った作者ではあったが、その情景を見て、ある得体の知れない朗らかな心持ちが湧き上がってきたと、書いている。