常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

寒鱈

2014年01月31日 | 日記


新年が明けたばかりと思っているが、もう今日で一月が終わる。日が経つのはのまことに早い。2月は詩吟の「新春のつどい」、優秀吟の会の予選会、山友会の新年会、38会の新年会と行事が目白押しである。2月もまた、あっという間に過ぎ去る予感がする。節気でもいよいよ節分、立春と厳冬から春のきざしが見えはじめる。そうすれば、農作業の準備にもとりかかる必要がある。なにか季節に背をおされるように、春の暮らしに向かわなければならない。

初春や豆腐ずきなる老い同士 

寒鱈の旬である。わが家では、年に一度は「どんがら汁」を楽しむ。今年もそろそろ市場に入荷の状況を見ているが、夕べは定番の湯豆腐にした。湯豆腐に入る鱈の切り身は寒鱈が最高だが、最近冷凍ものでも大ぶりのものが出回っている。熱い豆腐を食べるのは、やはり大寒のころが一番よいようだ。

「鱈汁と雪道は後がよい」 鱈は煮込むほどの骨と肉が外れてばらばらになる。こうなってからの方がダシが出てうまい。雪道は人が歩いた後の方が、歩きやすくなるのでこんな諺が生まれた。湯豆腐の残り汁に醤油や味噌をいれるとおいしいスープになる。また夕べの鱈鍋の残りを朝、みそ汁に仕立てると二日続けて寒鱈が楽しめる。冬に逃すことのできない味覚だ。

薄月の鱈の真白や椀の中 東洋城

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葉山

2014年01月30日 | 日記


今日、山形市の北西にある葉山がきれいに見えた。その南の月山の円な山容も、白い雪につつまれてまぶしいような景色だ。今年になってこれほど、葉山と月山がきれいに見えるのは初めてかも知れない。この二つの山が、日本海からの雪を障子にのように閉ざしすために山形に雪が少ない。というか、雪雲の雪は月山へほとんど降らせてしまう。

葉山というのは県内にいくつかあるが、奥の山にたいする端の山が語源である。出羽山地の端にある山で、主峰は月山ということになる。標高1462m、頂上には葉山神社がある。古くは修験の山として信仰を集め、出羽三山のひとつとされたこともある。山頂にあった別当大円院は五穀豊穣の守り神として近郷近在の信仰を集めたが、戦後山麓の大高根に米軍射撃場となり葉山入山禁止命令が出て大円院も岩野へ縮小移築された。

山形の農民詩人、真壁仁に「弾道カ下の村」という詩がある。入山禁止令のもとに起こった悲劇を、悲憤をこめて詩に書いた。

    1

空を鳥は飛ばなくなった
山にコブシが咲かなくなった
空に飛ぶのは砲弾ばかり。
山に咲くのは火の花ばかり。
けれども人はどこにもゆけない。
ここがふるさと、ここが田畑。
家畜とともに農具とともに
弾道の下で耕して生きる。
 これは戦争じゃないか。
 これは戦争じゃないぜ。
 だれも相手がいないじゃないか。
 そういう戦争なのや。
 岩が城にみえるのや。
 鉄を山にすてにゃならんのや

   4

こっそり赤線をこえ
禁じられた山にのぼる子供たち。
河島の丘に石器を掘った考古学者より
もっとまにめに鉄器をさがす。
それはワラビや木の実より重い。
それは教科書になりイワシになりズボンになる。
少女の一人は巨大な不発弾を抱いて爆死。
生命より重かった富のかけら。
呪え、いくらでも呪ってやれ。
悪魔に花を手渡す貧の底から。
そしてとりかえせ。
失ったすべてを。


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梅のつぼみ

2014年01月29日 | 日記


ベランダに置いてある梅の鉢のつぼみがふくらみ始めた。きのう、-7.5℃、その前は-7℃という今冬一番の冷え込みのなかでつぼみがふくらむのは、やはり植物という生命体の奇跡というべきであろうか。これを見ると厳寒期であるのに春の訪れをおぼえ明るい気分になる。

紅梅のりんりんとして蕾かな 星野 立子

もともと中国の花である梅が日本で好まれるようになるには、中国へ遣隋使を送った奈良朝にさかのぼる。朝廷に仕える貴族たちは競って梅の木を植えた。宇多天皇の寵を得て、参議から右大臣にまで登りつめた菅原道真もまた梅を愛した。

もともと道真は学者・文人の家の生まれだ。文章博士となり、詩を詠み、朝廷の文章を書くことでその地位を保ってきた。藤原氏という貴族勢力の台頭と詩無用論が朝廷の流れであったなかで、道真の詩文を愛した宇多天皇の寵愛が皮肉なことに道真の晩年を不幸へと導いた。宇多上皇に反発した藤原時平は醍醐天皇と図り、道真を太宰へ左遷させた。

東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな 菅原道真

昌泰4年(900)1月25日、道真左遷の宣命が下された。驚いた宇多上皇は内裏に駆けつけ、建春門に座り込んだが、参内はかなわなかった。そのわずか6日後、道真は追われるように京の邸を出立した。そのとき庭にある梅の木を見て詠んだ和歌である。梅の匂いを筑紫の配所まで春風にのせて送ってほしいと、梅の木に語りかけたのである。

配所で寂しく死んでいった道真は、その後、京を襲った雷が清涼殿に落ち、それが道真の怨霊のためであるいう風説によって復権する。道真を祀ることで怨霊の祟りを鎮めようとして
天神信仰が広く行われるようになった。


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塩の道

2014年01月28日 | 漢詩


甲州、現在の山梨県は周囲が海に接しない数少ない県である。ここへ塩を運ぶにはひと苦労である。富士川の舟運が開けるまでは、海沿いの製塩地からいくつもの山道を人の背や馬に乗せて運ぶよりなかった。人が生きるために塩が必需品であることは言うまでもないが、今日のように物流が発達しない時代では、その国の盛衰に直結していた。

戦国時代において武田信玄の力を恐れた近隣の諸国が、その力を封じこめるために塩の道を封鎖し武田領民に塩欠乏を引き起こす作戦にでた。この戦略はたしかに武田勢を苦しめたが、反面領民と武田軍が一体となり、死を恐れぬ戦いに駆り立てる契機ともなった。塩の道を絶つことを、武将としてあるまじきこととしたのが、信玄の仇敵上杉謙信である。

「敵に塩を送る」という話は戦国の美談として語られてきた。謙信の信玄に送った書状に「卿と我と争うことは弓箭にあり。何ぞ米塩にあらんや。今より商賈を通じて給するに北海の塩を以てせん請う之を取れ」と書いた。この話は謙信の人柄を称揚しようとする後世の作ったものとする説も行われているが、甲州には南から入る塩の道のほかに北からの道があったことの証左でもある。

 九月十三夜  上杉謙信

霜は軍営に満ち 秋気清し

数行の過雁 月三更

越山併せ得たり能州の景

さもあらばあれ家郷遠征を憶ふと

越後の山々の連綿として連なる山容は、深い雪のなかでその威容を誇る。能登の七尾城を攻め落として、能登の景観と越後の山容を併せて我がものとした謙信の軍営における述懐である。越後から遥々と能登まで遠征した謙信の軍は、勝利のあと月の出る海浜に静かに夜営した。


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冬の樹形

2014年01月27日 | 日記


葉が落ちた冬は、衣を脱ぎ捨てて木本来の姿を晒す。枝が茂り葉がつく部分を樹冠という。ケヤキは枝別れした樹冠が空に向かって扇を開いたような美しい弧を描く。かつては家の庭にケヤキと桐を植え、娘が嫁ぐとき桐ダンスを作り、孫が家を建てるときにケヤキの大黒柱にする、として大事に育てられた。いまは、お寺や神社の境内にケヤキの大木が残っている。

広葉樹の木の樹形はどうしてこのような形になるのであろうか。それは、先端に葉のつく枝が日光を求めて伸びるからだ。葉が重なるようになると、元気な枝が伸び、その影になった枝が枯れていく。そうした淘汰をくり返しできた姿が冬に見られる樹形である。

まなぶ窓枯木しづかに天を刺す 鷲谷七菜子

カメラを持って散歩すると、いつも新しい発見がある。カメラを持たずにいたときには、つい見逃したものも、ふとその日の空の色は光が刺す具合でまったく別の光景に見えることがある。一期一会のの瞬間にめぐり会える。


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