常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

眼力

2025年02月13日 | 読書
立春を過ぎてから日が経つのが早い。寒気は入りっぱなしだったが、晴れや気温の高い日も混じるようになった。室内に入れたクンシランが花を咲かせ、アマリリスの葉のわきに花芽が二つのび始めた。あと10日ほどで花を見られるかも知れない。予報では、明日から寒冷前線が南下、全国的に気温が下がり雪になるらしい。

最近はニュースをテレビよりネットで見る機会が増えた。ネット上には役に立つ科学に裏打ちされた情報となんの根拠もない情報が混在している。そこを見極める力が求められる。先日兼好の『徒然草』を読んでいたらその辺の極意のようなものが記るされていた。第194段。「達人の、人を見る眼は、少しも誤る所あるべからず」この段で兼好は「ウソ」に対する反応の仕方を10のパターンに分けて人の眼力を測っている。

1ウソをその通り真実として受け取り騙される人
2ウソを信じ切り、その上にまたウソを重ねる人
3何とも思わず無関心な人
4多少不審に思い、信用するでもなく、信用しないでもなく思案している人
5真実らしいとは思わないが、人の言うことだからそんなこともあるかもしれ 
 ないと、放っておく人
6いろいろ推測し、分かったふりをして、利口そうにうなずき微笑するが実は
  全くわかっていない人
7推測してウソを見破り、ウソに違いないと思いながら自分の推測が間違って  
  いるかもしれないと、不安に思っている人
8当たり前のことだと、手を打って笑う人
9ウソだとわかっているが、知っているとも言わず、わかったことについてあ  
  れこれ言わず、知らない人と同じふりをしてやり過ごす人
10ウソの意図をはじめからわかっているが、それを小馬鹿にせず、その人と心を合わ
  せて、人をだますことに協力してしまう人

兼好はこれらの人を愚かと言っている。兼好のウソへの反応の分類はみごとというほかない。いま自分の心のなかにこの分類項目が多く含まれていることに驚かされる。眼力ある達人の前では、これら愚かな人の真意を見抜くのは、手の平の上のものを見ることのように簡単だと語っている。眼力はメディアリテラシーと言い換えてもいい。ウソの情報のなかには何らかのサインが隠されている。その意味読み取ることができることが眼力があるということだ。
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毎日一話

2024年07月13日 | 読書
作家、眉村卓氏の妻が、突然の癌を告げられた。しかも余命は、一年と少しということであった。初めの見立ては虫垂炎ということであったが、開腹してから進行性癌が見つかった。1995年6月のことである。手術を終えた妻に、眉村はある約束をした。毎日短い話を書いて妻に読んでもらうことであった。小説家としてきちんと話を作って、妻が満足できるもの書く。400字詰めで3枚以上という条件もつけた。妻は5年以上生きた。眉村が作った話は1778話に及んだ。一日も欠かすことなく書き続けた。「しんどかったら止めたていいわよ」と妻が言ったが、眉村はこのことを辛いと思ったことはなかった。妻の意識は、次第に薄れ、自分の力で読むことができなくなっていく。枕もとで読んで聞かせ、反応を見る日が続いた。

その101話が「作りものの夏」である。初老の主人公が、友人に目が悪くなっていることを話す。友人は、「人間60代になったら、20代の半分も光を感じなくなるそうだよ」と言い、会員制の明るいドームの話をした。若いころの感じになってもらえるように、動く立体映像もとりいれてある。行ってみみて気に行ったら会員になってくれ、と勧める。

ドアの奥のトンネルを抜けたところにドームはあった。「不定形の大きなプールがあり、そこかしこにビーチパラソルやデッキチェアが置かれている。泳いだりお喋りをしている人々の中には、若い男女もいた。プールの向こうは海であった。ここは高台になっているのだ。波がきらめき、真っ白な雲が流れている。そして私を圧倒したのは、光であった。ぎらぎら輝く日光が、空間すべてに満ちているのだ。これは本当の夏だ。いや。それはかって若い頃に私が感じていた夏であった。」

眉村は、この話を同年代の妻は、わかってくれると信じて創った。だが、妻の反応はノーコメントであった。雨の降り方が、様変わりした話「降水時代」。水がどーんと落ちてくる降水、雨ではない。学校の生徒は、この降水に外に飛び出して水浴びをする。学校へは、必ず着替えを持って登校する。降水が終わって水に濡れた服を洗濯するのは妻の仕事。この話を読みながら、妻は含み笑いをしている。
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忘れる読書

2024年02月26日 | 読書
朝方、深い霧であった。10時ころになって霧が晴れ、千歳山の雪景色が見えた。夏日のような気候のあとに、厳しい寒気が入ってくる。寒暖差ギックリ腰というものがあるらしい。重いものを持たなくても、15℃以上もの寒暖差だとギックリ腰の症状が出るらしい。経験したことのないような異常気象が何をもたらすか、なかなか想像するのも難しい。昨日、本屋に行って落合陽一『忘れる読書』を買ってきた。高齢者にとって、読むかたはしから何を読んだのかを忘れてしまうのは切実な問題だ。もう10年以上も前になるが、同級会で友だちの述懐を聞いたことがある。「いやあ、夕べ読んだ本の内容を次の日には全部忘れているんだよ。」

落合の『忘れる読書』はこのような杞憂を払拭してくれる。落合は読後に残った知識や考えをざっくり頭の片隅にしまいこんで置くだけでいいと書いたあとこんな風に記している。
「私自身は昔から、本は気楽に読んで、一度は忘れるということを繰り返してきました。今ではむしろ、「忘れっぽい」ことが強みだと思うようにしています。本全体の10%ぐらいが頭に残るのちょうどいい、というのが私の感覚です。」

こうした読書をくり返しているうちに、潜在意識に残ってふとした折にその断片が記憶に浮かんでくる。そこに新たなひらめきが降りてくる。これが忘れる読書の利点だと書いている。
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シオンの咲くころ

2023年09月19日 | 読書
本棚から整理すべき本を、一冊、また一冊と取り出している。もう読むことはないな思う本にも、過去の記憶が体内の深いところで眠っていることがある。ちょっと、ページを繰ってみると、そこのは思いもよらない宝石のような記憶がよみがえってくることがある。シオンが咲いて、いよいよ秋が来たな、と思う日の午後であった。この日、手に取ったのは岩波文庫、ラム『エリア随筆』。本の帯に岩波文庫創刊60周年記念リクエスト復刊と大書されている。

ラムがイギリスの随筆家であることはつとに知られている。ラムについて、その人となりをチャットjtpに聞いてみた。ラムはロンドで1782年に生まれ、1834年に52年の生涯を閉じている。クライスト・ホスピタル校に学び在学中に、著名な詩人と親交を結んでいる。卒業後は南海会社から東インド会社に転職、30年もの長い期間勤めている。恩給をもらって退職したというが、ほぼ生涯をこの貿易会社に勤めていたことになる。エリア随筆は、仕事をしながら書いたエッセイ男である。ラストエッセイとして1833年の執筆されたものがあるから、書き始めて10年、死の前年まで書き継いだものだ。

何故、自分の本棚に、この一冊があるのか。思い返せば、40年も前に参加していた読書会がこの本を買うことになった動機と思われる。ビブリアの会と名付けられていた。会員は主に、高校の先生方であった。一時期のテーマがシェイクスピアであった。ラムはシェイクスピアを敬愛し、『シェイクスピア物語』という本も書いている。ページを繰ると、「私の初めての芝居見物」という一項がある。ラムが6歳から7歳ころ、親に連れられて芝居見物に行った回想が書かれている。ラムが行った小屋は、舞台と土間、そして土間に被さるようにのびる桟敷。そこには高貴な、ご婦人方が大勢いた。芝居の始まるのを、期待をこめて待つ少年の姿が描かれている。

「ついにオーケストラの光明があがると、あの「美しい曙の女神よ」との声がきこえる。鐘が一度響き渡った。もう一度それは鳴らなければならない。待ち遠しくてたまらなくて、私はもう思い切ったというようにして、目を閉じ母の膝の上に身を伏せてしまった。すると二度目のが鳴った。幕が上げられた。(中略)するとそこに古代のペルシャの宮廷があらわれたのである。かくして過去の光景の中に入るを許されたのであった。」

ラムは芝居でシェイクスピア劇も見たに違いない。その頃、私はテレビで流れるシェイクスピアの映画を何度見たことか。劇中に出てくる役者の息づかい、荒々しい言葉。役者の演じる悩みは、自分の悩みにつながってきた。ラムの子どものころの芝居体験が、当時テレビのなかで共有できた。いま、「寅さん」シリーズもこんな体験と重なって見えてくる。
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2023年06月01日 | 読書
村上春樹の初期の短編『蛍』を読んだ。村上の初期の作品は、自分にとって青春へのノスタルジーである。蛍はここへ移り住んだころ、周りの田の稲の茎に止まって光を放っていた。その頃、周りには多くの田があり、朝には雉の鳴き声で起こされた。この季節には、蛍がいるはずもないが、季節感を失わせる出来事が続いている。季節はずれの台風の進路が放送されと、つい秋の気配を感じ、道端に咲く花をコスモスと間違えたりする。

村上の『蛍』は青春の喪失の物語である。主人公は学生で、寮生活をおくっている。彼には友人がいた。この寮へ来る前、友人とその彼女と青春時代を過ごした。高校時代の5月の午後、主人公はその友人とビリヤードで遊んだ。4ゲームを戦って最初の1ゲームは主人公が取ったものの、残りの3ゲームは友人が取った。その日の夜、友人は自動車の中に排気ガスを入れて自殺した。遺書もなければ、自殺する動機も知れない、突然の出来事であった。

付き合っていた彼女にもあまりにも突然の出来事であった。大学に入って、東京へ出た主人公は、偶然に電車のなかでその彼女に会う。面と向かって話をする彼女ではなかった。電車を降りたのは四ツ谷、そこからまともな会話なしに市ヶ谷へ向かって歩きだした。「ここは何処?」「駒込だよ」「ぐるっと回ってきたんだ。どうしてここにいるの?」「君が来たんだよ。僕はついてきただけ。」

週に1回、こんなデート繰り返すうち突然饒舌になった。終わりのない話をしながら、主人公の目を見つめたいた彼女の目から涙があふれだした。それはとめどない涙であった。その夜、主人公は初めて彼女と寝た。それから、短い手紙を残して彼女は東京を去った。心を癒すため、京都の療養所へ行くという手紙だった。寮の部屋の同居人が、帰郷する前に、庭にいた蛍をコーヒー瓶に入れてプレゼントしてくれた。蓋に空気穴をあけ、草を敷いてあった。

瓶ののなかの蛍は、か細い光りしか放たなかった。今にも死んでしまいそうな弱々しい光りであった。ここまで読んできて、主人公の思いは、療養所に行った彼女に向かっていると想像した。今にも死んでしまいそうな光、瓶から出して蛍を自然に帰そう。そして寮の屋上に行く。放った蛍は給水塔の縁から離れようとしない。そして、そこから蛍は飛びたっていく、光の軌跡を闇のなかに残して。青春の日、主人公の失ったものは、友人であり、その彼女であった。友人の変わりを果たそうとして、それに失敗した主人公の心には、苦い青春の後味が消えない。
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