野生のランのなかでは一番大きな花を咲かせる。福島の松川町のクマガイソウの群生地にこの花を見に行ってきた。珍しい花であるためか、この花の群落地に日本に3カ所のみになったようだ。まさしくほろびの花と言っていい。平家の滅びの戦国時代、海中で扇を上げ、敦盛を呼んでいる熊谷直実の背中の母衣に見立ててこの名がついた。ちなみにアツモリソウは、同じ科の花だが、二つを並べて、こっちがクマガイソウと同定する人は少ないらしい。スギ林の斜面に、見事に群生するクマガイソウだが、適度な湿り、降り注ぐ日光、冬の雪、などこの植物の生長の条件を満たせば、かくも見事な群落が出現する。この群落を維持成長させるために、人の手はまったく加えていない。自身の持つ力で、他の植物を排除し、このような楽天地を生み出した。植物の力はすごい、と思う。
藤の花
2024年05月02日 | 花
藤の花が咲いた。足利の藤棚は有名だが、先日その花の映像が流れたが、同時にこの地方でも見られる。気温の上昇で、歳時記や話題のなかにここの花たちも登場するようになった。枕草子に「藤の花は、しなひながく、色濃く咲きたる、いとめでたし。」の一文が見える。「しなひ」というのは、垂れた花房を意味する。足利の藤は、ここの「しなひ」よりは、さらに長く、地面につきそうな長さに見えた。それでも、藤の紫は濃く、花の生命力が伝わってくる。
埼玉の春日部には、牛島の藤がある。国の特別天然記念物に指定された藤の古木で、樹齢1000年を超えるという。三好達治にこの藤をたたえる「牛島古藤歌」がある。藤の花を眺めながら、三好の詩を口ずさむにはいい季節だ。
葛飾の野に臥竜梅
竜うせて もも すもも
あんずも青き実となりぬ
何をうしじま千とせ藤
はんなりはんなり
ゆく春のながき花ふさ
花のいろ揺れもうごかず
古利根の水になく鳥
行々子啼きやまずけり
メートルまりの花の丈
匂ひかがよふ遅き日の
つもりて遠き昔さへ
何をうしじま千とせ藤
はんなりはんなり
開花した桜があっという間に八分咲きになった。寒暖差は激しいが6月並の気温になっているからだ。足の弱った妻を連れて光禅寺の桜を見に行った。山道の桜並木は老木になって、花もまばらになっている。本堂前の枝垂桜が2本、見事な花を咲かせていた。長くこの桜の近くに住んでいた妻には、いい思い出になったことだろう。桜以外の花たちは、花壇の奥に見えるムスカリの紫以外は花の季節には遠い。オキナグサが咲くころ、また訪れてみたい。それにしてもこうも日ごとの寒暖差が大きいと、年寄りにには体調を崩すもんとになる。
散らであれかし桜花
散れかし口と花ごころ (閑吟集)
閑吟集は室町時代の小歌226種のほか、猿楽の謡、田楽節、狂言の小歌などをあわせ311首が収録されている。れないを中心とした歌がほとんどで江戸歌謡のさきがけとなっている。美しい桜は散ってほしくないのだが、口先だけの浮気ごころだけはいつまでも散らないで世間に多くある。花にことよせて、人の世のありようを皮肉った小唄になっている。
季節は本格的な春に向かって一直線。昨日からエアコンにスイッチも切った。大陸から黄砂が来るらしい。南風が風と雨を降らせているが、外に出ても寒くはない。沈丁花の花が香りを送り、昨夜の風が咲きだしたばかりの水仙を乱している。クリスマスローズの花はいよいよ大きく開き出した。春のエネルギーは太陽の力と言い換えてもいい。地上のごく小の草花に、命の息吹を促している。それは人間にも等しく力をくれる。先日、かかりつけのお医者さんに、疲れやすいことを訴えた。以前はまったく感じられなかった距離の歩きでひどく疲労を感じる。先生の答えは、「冬動かないでいたからですよ。少しずつ馴らして」。
先週から雪の日でもできる階段歩きを始めた。マンションの10階までの階段を5往復。やはり足が棒のように疲れる。1日1往復ずつ増やして6~7往復、一週間でやっと8往復。その時感じた辛さは、翌日の足の軽さに変えられる。悠創の丘までピストンも少しずつ交える。千歳山の春は、その先にある。外に出て感じることがある。数学者の岡潔の言葉に、「春の野のすみれは、ただすみれのように咲けばよい。」というのがある。自分の生命と、すみれの花が融けあって、そこにある。今日歩く一歩は、太陽に向かって花を咲かせる植物の命と変わりがないのだ。
沈丁の一夜雪降りかつにほふ 篠田悌二郎
アジサイ
2023年06月14日 | 花
梅雨に入って、アジサイが咲き始めた。2日前にコロナワクチンを接種したが、以前心配したような副反応はほとんどなく、接種翌日からほぼ平常の生活だ。近くで感染者も出ているので、ワクチンは打った方が安心できる。アジサイには牧野富太郎博士の解説がある。
「この花はかざり花で実をむすびません。花びらのように見えるのはがく、4ー5枚あります。がくの色は、花が咲きはじめたころは白く、のちしだいに青くなり、やがて青むらさき色に変わります。このように花の色が変わるので『七変化』ともよばれます。」
紫陽花や白よりいでし朝みどり 渡辺水巴
梅雨の雨に誘われて、怖い短編小説を読んだ。円地文子の『鬼』。30歳になろうとする女性編集者の心に住む鬼の話だ。熊野の旧家に生まれた華子は、学生時代から付き合う男性がいた。もう少しで結婚という段階にきて、夜夢をみるようになる。得体の知れない爬虫類のような気味の悪い怪物が出てくる。夢から覚めると、その正体が付き合っている彼氏のように思えてくる。こんな夢を見続けて、二人は次第に離れてしまった。
旧家を女手ひとつで守っていた母は、相手とも会い、華子の部屋で食事を作ってもてなしもした。その後も、華子は娘盛りであったので、結婚を前提にして付き合った男性が3人もいた。だが、どの場合も話が進展すると、最初の時と同じ夢にうなされて話がとん挫する。母の死後明らかになるが、この状況を作り出していたのは、母になかに住む鬼であった。母の死後、鬼は華子の心に移り住む。その鬼は、華子がやっと結婚した相手が、心をほかの女に移したときその女を死に追いやる。
小説は鬼を旧家に住みついたものとして描くが、実は人間そのものが鬼であるという怖い事実を暗示する。アジサイの七変化を見ながら、美しいものなかに存在する怖さに気付かされる。