常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

菜の花

2015年04月30日 | 


菜の花や遥かに黄なり筑後川 漱石

夏目漱石は菜の花が好きであった。見上げると空には、白雲がふわりと浮かんでいる。春ののどかな景色のなかで好きなことをして暮らしたい、というのが漱石が抱いた小さな夢であった。『草枕』で「春は眠くなる・・・菜の花を遠く望んだとき目が覚める」とも書いている。漱石のやすらぐ心象風景と、時代が文明開化へと流れていく時流とにはあまりに大きな落差があった。

そこで漱石がひねり出したのは、ユーモアであった。『吾輩は猫である』を執筆し、盛んに俳句をひねった。「菜の花の中に糞ひる飛脚かな」などという句も詠んだ。句題は下品なものであるが、芭蕉も「奥の細道」で、馬の尿を詠んでいる。
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シャクナゲ

2015年04月29日 | 日記


山に咲くシャクナゲはこれからだが、庭に植えられたものはもう花を咲かせている。尾根道の陽だまりで、強風や寒冷に耐える力強さを感じさせる花だが、庭に咲いている花は繊細で、ちょっと貴婦人を偲ばせるような花だ。ツツジ科の植物だが、葉がつやつやとしてツバキに似ている。急峻な山道をあえぎながら登ってこの花に出会ったときなど、山の神様からいただいたご褒美のような気になる。

石楠花の優艶つくす晩鐘後 水谷 晴光



光禅寺の庭で、山に咲く花をもうひとつ見つけた。シラネアオイだ。ブナ林の縁の草地の日影を好んで群落を作って咲く。高山植物の花としては大ぶりで、紫の優雅な花である。今年も山道でこの花を見るのが楽しみである。




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与謝蕪村

2015年04月28日 | 


与謝蕪村は江戸で俳諧師夜半亭宋阿の門人であったが、夜半亭亡き後、盟友の砂岡雁宕のいる結城に移り、身を寄せた。寛保2年(1742)、蕪村27歳の時である。結城は織物の町で知られるが、市内には25もの寺院があり寺の町としても知られる。鬼怒川をはさんで栃木県と隣接する町の下館や結城を遊歴しつつ、足掛け10年の歳月をこの地で過ごした。この地には、砂岡雁宕をはじめ早見晋我(北寿)など名のある俳人も多く、それらの人々との交流を楽しんだ。

結城で蕪村にとって大きなできごとは、慈父のような存在であった早見晋我(北寿)が1745年に75歳で逝去したことであった。蕪村は自由体の追悼詩「北寿老仙をいたむ」を作り、その死を悲しんだ。

君あしたに去ぬゆふべのこヽろ千々に
何ぞはるかなる

君を思ふて岡のべに行つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき

蒲公の黄に薺のしろう咲きたる
見る人ぞなき

雉子のあるかひたなきに鳴を聞ば
友ありき河へだてヽ住にき

蕪村は北寿の死を悼むあまり、近くの寺に出かけて剃髪して法体となり、庵室に籠ってその菩提を弔った。北寿の死は正月28日、新暦でいえば2月28日になる。その日、蕪村の遊んだ岡のべにはタンポポの黄の花に混じってナズナの白い花が淋しく咲き、河の向こうから雉の鳴き声が聞こえていた。すでに花を愛でていた人の姿はなく、河むこうの雉は呼びかけても応えてはくれない。

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白頭翁(おきなぐさ)

2015年04月27日 | 斉藤茂吉


斉藤茂吉が白頭翁(おきなぐさ)を愛したのは、この花が少年のころ裏山の遊びで群がり咲いていたからであった。この山には狼石というものがあって、この石には洞穴があり、そこで狼が子育てをし、夜岩の上で吼えたらしい。少年の茂吉は大人たちからこの話を聞き、友達を誘ってこの山に来た。

おきなぐさに唇ふれて帰りしがあはれあわれいま思ひ出でつも 赤光

茂吉は『作歌四十年』でこの歌に触れ、唇ふれては接吻のことだが、異性へのもでなく野の花であるが、表現が西洋風であるための叙情の歌として受け取られている。少年時のことが過去の追憶となってこの歌を作らせた、と言っている。多感な少年時の感情が、この花へのこだわりとなったのであろう。

かなしき色の紅や春ふけて白頭翁さける野べを来にけり つゆじも

大正十年の春、茂吉は上山に帰り、病気で弱った父を見、兄弟にもあった。茂吉自身、長崎に赴任していたが、病気になり喀血もしている。かなしき色のおきなぐさの花は、そんな不吉な色でもあるが、少年のころの追憶の色でもあった。

茂吉全短歌の短歌索引をみると、おきなぐさで始まる歌が、15首見られる。「赤光」から「白き山」まで、茂吉は生涯にわたっておきな草を愛し、詠み続けた。茂吉は疎開の生活を終え、東京の家に帰るとき、白頭翁の咲く狼石の野べを訪れ別れを惜しんでいる。茂吉はひともとのおきな草を掘って、東京の家の庭に移そうとした。

おきなぐさここに残りてにほへるをひとり掘りつつ涙ぐむなり 白き山





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花塚山

2015年04月26日 | 登山


阿武隈山地の花塚山に登った。ここは川俣町と飯館村の間に立つ標高918mの山である。福島から川俣町への農村風景はのどかな春の景色である。ここの名産である桃の花が満開であった。濃いピンクの花は、桜とは違った華やかさがある。この山村の風景は、ふとかの桃花源を思い出させる。ここのところ続く好天に恵まれて、春の花塚山は以前訪れたときと変わらない。登山口の花塚の里の来て、この町と村が受けた悲惨な出来事の跡を見る。子どものために作られた遊園地は、もう利用する人もなく、遊具が使われることもなく淋しげに置かれてある。

遊園地の脇の山には、除染された跡が残っている。空き地に積まれたビニールの大きな梱包物はあるいは、捨て場のない汚染物であろうか。登山口の駐車場で、2グループの人たちに会う。地元の登山愛好家たちで、男女10人ほどのグループであった。この人たちから、山の様子を聞く。コースによって急な下り、一周すると結構長い山歩きになるなど、懇切に教えてくれる。登山口から花塚山への登山道は、緩やかな傾斜で、唐松林のなかであった。ウグイスの声を聞きながら、花崗岩の岩が所々で面白い形を見せる。



岩陰にひっそりと咲くイワウチワがいとおしく感じられる。どのような災害が起ころうとも、そこの木々や花たちは、季節の巡りとともに葉を出し、可憐な花を咲かせる。小さな花には、人間の科学や技術を越える強さがあることを感じる。沢筋にはニリンソウの群落、ヒトリシズカの気品ある花に逢うこともできた。あまりの好天で、写真は白トビしてアップできない。露出補正で撮影することを考えなくては。



花塚山から北峰へコースを取る。尾根道は木に遮られて展望がきかない。それでも所々に太平洋が見え隠れしている。黄砂のためか霞がかったような眺望だ。竪岩から急な下りとアップダウンを経て花塚の里へ降りる。歩行総距離6.1キロ。朝8時30分から、約4時間の歩行であった。参加メンバー6名、内女性2名。
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