常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

串田孫一

2017年01月31日 | 日記


新関岳雄先生の『文学の散歩道』は、私に少しも知らなかった色々なことを教えてくれる。哲学者として知られる串田孫一が、山形の山村に住んでいたということも、この本によって知った。戦災で家も蔵書も焼かれて、串田孫一は北へ向かう列車に乗った。昭和20年6月のことである。あてもない旅であったが、ふとした縁で下車したのは、山形県の新庄市であった。都会育ちで山村のことなどなにも知らない30歳の青年であった。その山村で串田は畑仕事を手伝い、田の草を取ったりしながら、少しづつ山村の生活に馴染んでいく。そしてそこで見た風景を、『荒小屋記』の「鉄橋」と題する文章のなかで綴っている。

「その森がぷつっと終ると、広い河原に出て、汽車は鉄橋を渡る。その鉄橋のことである。下を流れているのは泉川で、もうしばらく流れたところで、最上川に合流する。(中略)想い出せばさまざまなことがこの河原にはあった。夏草のむんむんするいきれを、木陰へ避けて、上流の杢蔵山の向こうをすれすれに通っているように見える雲の彼方を追い、秋風が立ちはじめ、どこからか多分遥かな山から送られて来たらしい落葉の舞い狂う容子を眺め、そうして11月末からはもう雪だった。」

私は串田孫一が書いた『山のパンセ』という岩波文庫を持っているが、串田の哲学の論文を読んだこともない。この短い随筆を読むと、戦後の体験は、学生時代から好きだった山登りがこの縁につながったように思える。串田がこの鉄橋の近くで住んでいたのは、昭和20年の6月から翌年の9月までだった。夜、部屋で本を読んでいると、汽車の警笛がけたたましく響く。翌朝になって、村の人がいう「汽車道往生」という事件が起きたことを知る。この鉄橋は人が通るための橋ではない。少し遠回りになるが、人が通る橋がかかっている。わずかの近道のために、村人は尊い命を失ったのであった。
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和歌連吟

2017年01月30日 | 詩吟


春の息吹が感じられるうららかな日和のなか、岳風会山形地区の「新春の集い」が開かれた。もう新年会の集まりも最後である。山形地区の集いであるため、集まった150名はより身近な存在である。この日注目された吟詠は、山形岳風会の太田会長が披露した和歌連吟である。和歌の吟詠は通常一首の和歌を、序詠と本詠で2回繰り返して詠ずる。序詠はその一首の紹介という形でさらりと詠じ、本営で声を張り、詩情を格調高く歌い上げる。

太田会長が試みた和歌連吟は、2首の和歌を詠ずることであった。1首は斎藤茂吉の「新年の歌」、そしてもう一首は佐々木信綱の「春」である。「新年の歌」を序詠に、「春」を本詠に据えた。詩文を記すと

新しき年のはじめの朝めざめ
 生きとし生けるこころはげまむ (茂吉)

春ここにうまるる朝の日をうけて
 山河草木みな光あり      (信綱)

こうして2首が連吟されると、年が明けて、春の日差しをあまねく受けて、木々の芽がふくらんでいく様子が大きく広がっていく。とくにこの日は、空に雲一点もない快晴。じつに清々しい陽気にふさわしい吟詠となった。これからの吟詠は、こうした新しい挑戦が、次の時代を拓いていくように思えた。
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大平山からの眺望

2017年01月28日 | 登山


朝方は雲の多い空であったが、大平山の頂上に着く頃には、抜けるような青空だ広がった。その青空から雪がひとひら、ふたひらと桜の花びらのように舞い降りてきた。目前に蔵王の外輪山である瀧山が迫り、その左手に面白山を盟主とする二口山塊の山々が、美しい姿を見せた。西高東低の冬の気候では、こんな青空をめったに見ることができない。それでも一週間、あるいは10日の一回ぐらいの割合で、好天に恵まれることがある。そんな日に山行できるのは、僥倖というほかはない。仲間に一人くらい、よほど精進した人がいたのであろう。

雪嶺の光や風をつらぬきて 相馬 遷子

積雪期、大平山へは上山斎場に車を置き、車道を山中の寺に向かう。寺の裏の斜面の雪を踏んで大平山の尾根にとりつく。尾根の着けば、山頂へは一本道だ。虚空蔵山、経塚山、秋葉山などの上山の里山の雪景色を見ながら、平坦な尾根道を進む。頂上までの最後の傾斜を登りきると、あっという間に頂上に着く。斎場からお寺まで1時間、お寺から頂上まで1時間半、距離にして約3キロの雪踏み登山である。年初の登山にしては、足馴らしにちょうどよい距離である。本日の参加者8名、内女性3名。



登り始めてから天気が段々とよくなり、風もさほど吹かない。昨日の強風がうそのようだ。空の青ささしだいにまして、白い雪とのコントラストが気持ちいい。雪で足に心地よい疲れを覚えながら、澄んだ空気を胸いっぱいに吸う。山行の心地よさに、参加したメンバーの笑顔がはじける。約ひと月、待ち焦がれたいた至福の時間だ。下山して温泉街で蕎麦を食べる。昔よく行ったみつひろ。2時というのに、店内は溢れるばかり客であった。手打ちの蕎麦を堪能した。
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笑いを誘う歌

2017年01月27日 | 万葉集


万葉集に戯笑歌というのがある。万葉集は恋も悲しみも素直に詠む歌が多いが、軽妙なやりとりで笑いを誘うものがひとつのジャンルを占めていた。鰻で有名な「石麻呂に吾もの申す夏痩せによしというものぞ鰻取り喫せ」という家持の歌があるが、軽妙なユーモアに思わず笑いを誘う。万葉集の歌の多くは、貴族たちが開いた宴会で、その場を盛り上げる余興として詠まれたものが多いことも、戯笑歌の存在の理由かもしれない。

石川郎女という女流歌人がいた。額田王とならんで多くの男性との恋の冒険を試みたやり手の女性である。近所に大伴田主という美男子が住んでいた。この男は、有力者大伴旅人の弟で身分の上からも申し分がない。郎女はなんとかこの美男子を陥落できないものかと計略を考えた。ある夜、郎女はお婆さんに扮装し、小鍋を片手に田主の家に行き、「隣の貧しい女ですが、火種を分けてもらえませんか」と言った。田主は取り合う風もなく、「どうぞご自由に。火種ならそこの竈にありますよ。」と言って家に入ってしまった。明くる朝、郎女が田主が贈った歌

遊士(みやびお)とわれは聞けるを屋戸貸さずわれを還せりおその風流士 郎女

みやび男と評判の田主さま。でも評判だおれですね。一夜の宿も貸さずに私を返すなんて、鈍感な間抜けた風流人だったのね。

この歌を見て、田主は夕べのお婆さんが郎女であることを知って、慌てずに返歌を送った。

遊士にわれはありけり屋戸貸さず還ししわれぞ風流士にはある 田主

相手の語句をそのまま使って返すの応答歌の気のきいた手法と考えられていた。こんな、応答が宴会の居並ぶ貴族の前で披露されれば、満場の喝采を得たに違いないであろう。
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深町伊都子

2017年01月26日 | 日記


大学に入ったころ、専攻は英語と決めていた。状況の変化でそのことは叶わなかったが、名物の先生が多くいた。岩波の英語辞書を書いた田中菊雄先生、それから深町弘三先生がいた。田中先生のことは以前にこのブログで書いたが、深町先生も名物教授であった。毅然とした姿勢で、学生が近寄りがたいオーラがあった。今、ネットで検索してみると、岩波文庫スウィフト『奴婢訓』の翻訳者として先生の名がヒットする。娘さんが大学の先輩で英語を専攻していたように記憶している。背の高い美人で、学生の憧れの的だったが、所詮は高嶺の花というべきだろう。

先生が住んでいたところは、木の実町にある官舎であった。私はその隣に住んでいた数学の黒田先生を訪ねて、イチゴをご馳走になったことがあるが、深町先生のお宅を訪ねたことはない。むしろ近寄りがたい先生であった。先ごろ読んだ新関岳雄先生の『文学の散歩道』で、深町先生の奥さんが歌人であることを知った。横浜の生まれで、アララギに属し、山形に嫁いでからは結城哀草果に師事していたという。新関先生の記述によると、酒が好きな深町先生のためにずんぐりとした徳利に酒をあたためてお酌をし、酒のつまみを出してくれた、とある。

さびしさびし五十のわれの躰より夜毎剥落するものがある

朱に燃ゆるこころ五十の胸にもちあなつめたし掌の雪

教授の妻、深町伊都子の詠んだ和歌2首である。昭和33年に刊行された歌集「冷凍魚」に収められている。50歳という節目の年齢になって、女性の生のありようを深く掘り下げている。今、自分の娘たちがその年齢になった、時代の落差に驚くほかはない。
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