新関岳雄先生の『文学の散歩道』は、私に少しも知らなかった色々なことを教えてくれる。哲学者として知られる串田孫一が、山形の山村に住んでいたということも、この本によって知った。戦災で家も蔵書も焼かれて、串田孫一は北へ向かう列車に乗った。昭和20年6月のことである。あてもない旅であったが、ふとした縁で下車したのは、山形県の新庄市であった。都会育ちで山村のことなどなにも知らない30歳の青年であった。その山村で串田は畑仕事を手伝い、田の草を取ったりしながら、少しづつ山村の生活に馴染んでいく。そしてそこで見た風景を、『荒小屋記』の「鉄橋」と題する文章のなかで綴っている。
「その森がぷつっと終ると、広い河原に出て、汽車は鉄橋を渡る。その鉄橋のことである。下を流れているのは泉川で、もうしばらく流れたところで、最上川に合流する。(中略)想い出せばさまざまなことがこの河原にはあった。夏草のむんむんするいきれを、木陰へ避けて、上流の杢蔵山の向こうをすれすれに通っているように見える雲の彼方を追い、秋風が立ちはじめ、どこからか多分遥かな山から送られて来たらしい落葉の舞い狂う容子を眺め、そうして11月末からはもう雪だった。」
私は串田孫一が書いた『山のパンセ』という岩波文庫を持っているが、串田の哲学の論文を読んだこともない。この短い随筆を読むと、戦後の体験は、学生時代から好きだった山登りがこの縁につながったように思える。串田がこの鉄橋の近くで住んでいたのは、昭和20年の6月から翌年の9月までだった。夜、部屋で本を読んでいると、汽車の警笛がけたたましく響く。翌朝になって、村の人がいう「汽車道往生」という事件が起きたことを知る。この鉄橋は人が通るための橋ではない。少し遠回りになるが、人が通る橋がかかっている。わずかの近道のために、村人は尊い命を失ったのであった。