常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

蓬生

2024年09月02日 | 源氏物語
朝の散歩で気になることがある。長年歩いているとこの季節にはあそこの庭に桔梗が咲く、シオンの花はあの空き地とだいたい覚えている。今年になって、毎年きれいに手入れされて花が咲いていた庭や空き地にヨモギや雑草はたまた葛までが大きくのびているのを見かける。朝夕、雑草をとり庭や空き地で草むしりに余念のない人々が高齢か病気のために作業ができなくなっているように思う。尾花沢の親戚を訪れたとき、一家の働き主の病気で畑の草が腰まで伸びたときかされた時はたまらない寂しさを感じた。こんな光景を見て思い出すのは『源氏物語』「蓬生」の帖だ。

ヨモギが大きく伸び、荒廃した邸に住むのは光源氏の世話を受けていた末摘花だ。源氏は須磨に流滴して3年、末摘花の邸を訪れる人もなく、侍従たちも一人去り、二人去りという案配で邸の荒廃はもちろん庭の手入れもできず荒れ放題であった。兄の禅師が、京に来たとき立ち寄るのだが、生い茂った庭の雑草のを取ることに気が回らぬ人だった。台風で建物あちこちが壊れ、召使の住む胸は骨組みばかりというありさま。牧童たちは邸の庭で牛や馬を放し飼いにする始末。そんな荒れ果てた住まいで姫がすることは古い歌や物語の本を読むことぐらいであった。そうするうちに京に帰った源氏が、花散里を訪れる折り、近くの末摘花の邸を思い出し、従者に雑草の露払いをさせて分け入るようにして入ったのがこの邸であった。

源氏はあまたある女性のなかでさほど美貌でもない末摘花は源氏から忘れられがちの女性であった。この3年、荒れ果てた邸を思いやるでもなく、ひたすら源氏を待つ続けたことへ愛着を感じたのであろうか。またこの邸は賑わいを見せ離れた侍従たちも戻ってきた。手元に『源氏物語絵巻』(中央公論社)がある。その巻頭を飾るのが、「蓬生」の源氏と末摘花との再会の場面だ。崩れ落ちた簀子、御簾の影から声をかける老女、馬の鞭で蓬の露を払いながら源氏を先導する惟光。傘をさしかけられている狩衣姿の源氏。邸の荒廃と対比される源氏の気高さが絵のなかに浮かびあがっている。

今夜は台風の影響で明け方にかけて強い雨になるらしい。消滅しかかった台風だが、これを追うように11号が発生した。平年を平均気温で2℃以上も高い最も暑い8月が終わり、その影響を残す暑い9月が始まった。

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寒波

2022年12月15日 | 源氏物語
雪が降りつづく。厚い雪雲に覆われた空は見えず、辺りの山並さへも消し去っている。ここへきて、山形の豪雪地肘折に、一日で83㌢の積雪があったと報じられた。一晩で朱鞠内や幌加内の積雪を追い抜いた。自分の生涯は、豪雪地と無縁ではない。昭和55年の山形市に一晩で降った雪は1ⅿを越えた。午後から降り出した雪が、夕刻にはバスの運行さえままならず、車が進まず置き去りにした車はさらに道路を使えないものしていった。その夜、バスで帰ったが、20分ほどで着く家まで、3時間もかかった記憶がある。

寒波が居座っているが、雪はまだ道路に積る状況ではない。車の屋根の雪も数㌢にとどまっている。週末に、さらに強力な寒気が降りてくるらしいが、その時の降雪がどうなるか、心配なことだ。雪は現代の交通手段さえ、時にはマヒさせる。古い時代の山に住む人々は、雪に閉ざされ、外に出ることさへ容易ではなかった。雪はしばしば、別離のシンボルとして文学のなかで語られてきた。『源氏物語』の「薄雲」には、源氏との間に生まれた明石の姫君と母明石の君の悲しい別れの名場面がある。

明石の姫君は将来、天皇の后になることが占い師から予言されている。だが、明石の辺境の地にあって、その望みは叶えられない。源氏は姫君を二条院に迎え、紫の上の養女になることを提案する。明石の君は、二条院に自分の居場所はないが、娘の将来を考え、源氏の提案を受け入れる。母と娘、生木を裂くような悲しい別れの朝、君の住むあたりは雪が深く積っていた。

落つる涙をかき払ひて、「かやうならむ日、ましていかにおぼつかなからむ」とらうたげにうち嘆きて
  雪深みみ山の道は晴れずとも 
  なほふみかよへあと絶えずして
とのたまへば

雪が降るこんな日には、娘のことが気がかりになるでしょう、どうか絶えることなく頼りを寄こしてください、と乳母に嘆願した。この場面は、京都嵐山の渡月橋の辺りである。小倉山の山麓であり、桂川の対岸に嵐山が聳えている。雪が降り積る季節、明石の君は我が子との別離にのぞんでどんな思いであっただろうか。柔らかい白い絹の衣を何枚も打ち重ねて、ただ軒端から、山の雪や汀の氷を打ち眺めていた。
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雪の別れ

2021年12月26日 | 源氏物語
天気jp.を開くと、今日現在の積雪量ランキングがある。
  • 1. 青森県 酸ケ湯198cm
  • 2. 道北 幌加内137cm
  • 3. 道北 朱鞠内125cm
  • 4. 山形県 肘折121cm
  • 5. 道北 幌糠110cm
生れた北海道と住み馴れた山形の肘折の雪は、その中に身を置いた経験がある。北海道の印象は、雪の深さもさることながら、気温の低さがそれに加わる。朱鞠内は深川から、ローカル線で山手に入る、人造湖のある地だが、夏湖畔でキャンプをし同級生と泊まった記憶がある。食材を持って、焚火でカレーライスを作った。友達と一緒であったが、煮炊きをしたのは人生最初の経験であった。この季節に、雪の便りが届いて、懐かしい記憶がよみがえる。

肘折温泉は20年ほど前、2家族で正月を3泊するのが恒例であった。県内で一番、日本の豪雪期でも3本の指に入る雪の温泉は格別であった。自炊に毛の生えたような食事でも、上げ膳据え膳が妻たちの喜びであった。夜が明ける前から除雪の音に目が覚め、一番風呂のついでに川が雪に埋もれながら流れる様子はここでなければ見れない雪景色であった。足跡のない川辺の雪の積もった岸に足跡をつけて歩くのは格別の楽しみであった。

秘境の雪は神秘的で幻想的だ。源氏物語で別れの悲しい場面には雪景色が背景として描かれる。明石の君は、源氏との間に生れた姫君の立后への道が開けるよう、正妻の紫の上の養子とすることに同意して、悲しい別れの場面が訪れる。

「雪、霰がちに、心細さまさりて、あやしくさまざまにもの思ふべかかりける身かなとうち嘆きて、常よりもこの君を撫でつくろひつつ見ゐたり。雪かきくらし降りつもる朝、来し方行く末のこと残らず思ひつづけて、例はことに端近なる出でゐなどもせぬを、汀の氷など見やりて、白き衣どものなよよかなるあまた着て、ながめゐたる様体、頭つき、後手など、限りなき人と聞こゆともかうこそはおはすらめと人々も見ゆ」(源氏物語巻4・薄雲)

雪のなかで白い着物の萎えたのを重ね着して、もの思いに沈んでいる明石の君の上品で美しい様子は、この世のものとも思えない。涙ながらに読んだ歌

雪深み深山の道は晴れずともなほふみ通へ跡絶えずして
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紅葉賀

2020年10月21日 | 源氏物語
源氏物語の7帖は「紅葉賀」である。神無月の紅葉の美しい日、先帝朱雀院の住まいに桐壺亭の行幸があった。その屋敷には、紅葉が紅く染まり、先帝の長寿を祝うのにふさわしい秋の日であった。この賀に花を添えるのは、光源氏と頭中将が舞う青海波であった。

この時、后の藤壺は懐妊しており、行幸に同行することはかなわなかった。多くの女房たちも、二人の青海波をみることができないのを残念がった。藤壺の胸中を察して、帝は清涼殿で行幸の予行練習ともいうべき試楽を行い、藤壺をはじめ、多くの女房たちの前で源氏と中将の青海波が舞われた。青海波とは、唐楽の曲名で、波は序波急という舞の調子で序から、次第に複雑な調子が加わり、急のクライマックスへと展開される。

二人は波に千鳥の模様をつけ着物、頭には鳳凰の頭をかたどった兜をかぶり、源氏は赤、中将は白の衣装で、違いを見せた。詩楽は、かの迦陵頻伽を思わせる美声で舞を引き立てた。帝はついぞ知ることはなかったが、藤壺が懐妊していたのは、若き光源氏との不義の子であった。罪の意識にとらわれながら、源氏は藤壺のために舞い、藤壺もまたその舞いの美しさに見とれるのであった。

もの思ふに立ち去る舞うふべくもあらぬ身の
 袖うち振りし心知りきや(光源氏)

唐人の袖振ることは遠いけれど
 立居につけてあはれとは見き(藤壺)

試楽のあと、源氏と藤壺の歌のやりとりである。青海波には袖を大きく振る舞いが登場する。袖を振るという行為には、古来「魂よばひ」のしぐさとされている。それを見る人の魂を呼ぶ愛情表現の行為であった。

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梅雨入り

2020年06月09日 | 源氏物語
こんな夕焼けになった後、暑い日が続く。今日、明日と猛暑日となるらしい。そのあと、大陸から張り出していた高気圧が東へと抜けていくと、南の海上に停滞していた梅雨前線が一気に北上、11日から東日本の広い範囲で梅雨入りになるらしい。
いまだコロナの終息も見ないままに迎える梅雨。大雨で、洪水などの災害が起きると、避難所ではコロナ対策も必要になり、さらに大きな負担が加わることになる。

梅雨は梅の実がみのるころの雨で、梅の木を見ると、実が大きくなっているのに驚く。その脇にあるサクランボの木を見ると、こちらもそろそろ色づき始めた。梅雨を昔は五月雨(さみだれ)と呼んだ。さは五月(さつき)のさ、みだれは水垂れの意で、五月の雨ということになる。旧暦の五月は、今の六月である。源氏物語の「帚木」の「雨夜の品定め」が有名である。うち続く五月雨に足止めと、宮中の物忌が重なって雨の長い夜、源氏や葵の上の弟頭中将らは、時間つぶしに女から来た恋文を見せて、とせがむ。やがて、話は女性の品定めへと移っていく。おりしも来合わせた左馬頭は、得意になって女性関係の失敗談に話が弾む。

そこで語られるのが、「中の品」と分類される女性である。源氏たちが普通の付き合う女性とは違って、受領層の女性の魅力が語られる。いわゆる地方の国司や受領などの妻や娘たちである。源氏はもっぱら聞き役であったが、この「中の品」の女性に興味を抱く。嫉妬深い女、浮気な女、内気な女、才女など、貴族の女たちにはない奔放な性格を読み取ったのだろう。源氏が方違いと称して出向いたのは中川の紀伊守邸である。そこで出会ったのが、「中の品」の女性空蝉であった。

数ならぬ伏屋に生ふる名の憂さに
 あるにもあらず消ゆる帚木 空蝉

取るに足らぬ貧しい家柄故に、あの言い伝えである帚木のように消えてしまます、という歌を残して、打掛をだけを残して源氏の前から姿を消した。帚木はホウキを逆さまにしたような木で、遠くからは見えるが、近寄ると見えなくなる伝説の木である
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