常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

大晦日

2016年12月31日 | 日記


今日はお札、義母の不要になった神棚などをお焚き上げしてもらい、一年の区切りをつける。ベランダから眺める風景は穏やかで、雲が少し多い目である。しかし、もう以前のように新しい年を迎えることに特別な意識はなくなった。年賀状を書くのを止めて見た。必要な人にだけは、新年になってゆっくりと消息を書くことにする。

陽をのせて大年の雲動かざる 中川 宋淵

田山花袋の『田舎教師』に、大晦日の町の風景が描かれている。明治の風景を読みながら、年忘れとする。

「此処では注連飾りが町家の軒毎に立てられて、通りの角には年の暮の市が立った。橙、注連、昆布、蝦などが行通う人々の眼に鮮かに見える。どの店でも弓張提灯をつけて、魚屋には鮭、ごまめ、数の子、唐物屋には毛糸、シャツ、ヅボン、ヅボン下などが山のように並べてある。」

それでは皆さんよいお年をお迎え下さい。


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年の瀬

2016年12月30日 | 日記


小雪がちらついているが、まあまあ穏やかな年の瀬。うす曇りのなか日差しも見える。部屋のなかを大掃除の真似事。それにしてもたまったのは、普段掃除機が行き届かない隅の埃。物をどかし、埃を掃除機で吸いそのあとに雑巾がけ。来年はからはもう少しこまめに掃除と、反省?

身辺や年暮れんとす些事大事 松本たかし

私の場合、今年は些事ばかり。大事とするようななものは何もなくて暮れていこうとしている。スマホを買ってラインを始めたのが、大きな変化であったか。コミュニケーションの取り方の新しいかたちが見えて楽しい。

一年をふりかえると、だんだんと残りの人生の過ごし方が、見えてきたような気がする。一に健康、そしていい友達を見つけてたくさん豊かと思える時間を過ごせれば。もう単純なことしか追い求めることはできない。
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葉山

2016年12月29日 | 日記


今年、山の日が国民の祝日になったのを記念して、山形県が「山形県の百名山」の人気投票を実施したところ、葉山(村山市)が月山や鳥海山、蔵王山などの名山を抑えて一位になった。今年は山ノ内コースを選んでこの山を登ったこともあり、一層身近な山になった。今日は、北側の窓からこの葉山きれいに見えている。同じ方角に月山もあるのだが、葉山がきれいに見える日は貴重である。何故かこの山がきれいに見える日は少ない。知らないでいたりすると、知人が電話で「いま、葉山がきれいに見えているよ。」と教えてくれたりする。

西村直次編の『結城哀草果百首』を読んでいて、この歌人が並みでない山岳愛好家であることを知った。車もあまり走っていない時代、弟子たちに和歌を教えに通う路にも足を鍛えれていたように思う。大井沢で医者であった志賀周子のもとへは、あの細い大井沢峠を徒歩で越える。今と違って蔵王へ登るにしても、集落から蔵王温泉を経て、山道へ徒歩で入った時代だ。

七十三年の生甲斐ありて三〇一五米立山頂上に立つは冥加ぞ 哀草果

歌人の庭時孝剣賢は、「生命体である人間が、大宇宙の脈拍を直感的に感受し、それを素直に詠嘆し吐露されている」と難しく解釈している。もっと素直に、73歳という人生の晩年に、この足で名峰立山に登れたことの感動、それを神仏の加護のおかげであると解釈するべきではないか。哀草果は旅や高山に登ることによって、自らの歌の境地を広げて行った歌人である。

私もこの年になるまで山に登ることができるのは、天に授かった健康である。身体の許す限り、もう少し山に触れていきたい。もっとじっくりと腰を落ち着けて、山にいる一瞬、一瞬を大切にして行きたい。
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今朝の雪

2016年12月28日 | 日記


9日ぶりの積雪。ベランダの梅の鉢にふんわりとした雪が積もった。梅の木はこんな雪を好むのかも知れない。花芽が少しふくらんだような気がする。午前、年末の挨拶にY印刷を訪ねる。去年から依頼を受けて共同執筆した『山形市下水道50年史』が立派な本になっていた。びっくりしたが、同社の社長の訃報を初めて聞く。人間の別れとはこんなに儚いものか。半年ほどのご無沙汰の間に、ガンによる社長の死があった。「じゃあ、また」と気軽に挨拶して、いつでも会えるものと思っていたが、聞けばその時はもう医師の宣告を受けていたらしい。実にあっけない。

思えば長い付き合いであった。無理を言ってもいつも、いやな顔ひとつせず、こころよく受け入れたもらった。もう、あの顔を見ることができない思うとただ淋しい。自分よりも10年も若いのに、人の運命は分からねものだ。一仕事に区切りがつくと、夜の街にくり出しって行ったまだ若い時代のことが、走馬灯のように浮かんでくる。そんな過去のことなど何事もなかったように一切を捨てて、知らない間に旅立ってしまった。

鉢植えにあわ雪つみて訃報きく 幹雄

いつも人さまの句を引用さてもらってばかりだが、M社長のやすらかな永眠を祈って記念の一句にさせていただく。
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最上川

2016年12月27日 | 日記


知り合いの画家、原田敬造さんから生前に頂いた「最上川の雪景色」である。雪原の青い水がゆっくりと流れる最上川は山形県の象徴と言っていい。絵に描かれ、詩人や歌人、また俳人の絶好の題材である。大好きな構図で、居間への通路壁に掛けて毎日眺めている。最上川が画家や文人の関心を集めるのは、芭蕉の存在が大きい。疎開で大石田に来た斎藤茂吉は、芭蕉の足跡を訪ねて数々の名歌をものにした。その直弟子である結城哀草果は、師の作句の現場にあって、師から学びながら、最上川を詠むことに意を注いだ。

最上川にもはら取組みし年生きてなほも取組む年を迎へむ 哀草果

昭和22年の5月5日、斎藤茂吉は本沢村菅沢の結城哀草果宅を訪ね一夜泊った。哀草果の頭には師の作る最上川の歌が常にあった。そのことを「もはら取組み」と表現したのである。「もはら」は「もっぱら」の意であろう。

最上川迂回してここに簗場ありなほ迂回する先に渡場が見ゆ 哀草果

川がその流域の人々にとっては生活の場であった。その人間の営みを川の景観に感じと取って直截に表現している。茂吉はその生活の場は、長く都会にあり、故郷の景観をいつも詠んだが、そこを生活の場にしている哀草果にとって、川の存在は大きく、自らの存在に深い影響を与えるものであった。
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