先日、将棋のことを書いたが、明治の文豪幸田露伴は将棋を趣味にしていた。その実力も本格派で、プロの小野名人から4段を許されたいた。露伴の家に木村義雄名人が、しばしば訪ねてきて露伴と将棋を指した。木村名人は露伴を指すときは、角を引いて対局した。甥の高木卓の懐旧談によれば、2局指して1勝1敗であったが、名人は露伴に花を持たせたと述べている。
高木は名人の対局姿勢を見て感嘆している。駒台に駒を置くだけでも、露伴が雑然と置いているのに対し、名人は整然と並べて置いた。駒の種類によって、駒台に置く位置すら決まっていたであろう。差し手を案ずるとき、露伴が盤面を凝視したが、名人はふと目を盤から話して瞑目した。その落ち着いた姿勢を、高木は心にくいものがあったと、述べている。
露伴は昭和22年7月22日に死去するが、この死の直前の病床にあったとき、木村名人は塚田8段の挑戦を受けて名人戦を戦っていた。病床の露伴の関心事は、唯一この名人戦の成り行きであった。木村名人は、塚田8段に4敗を喫して名人位を奪われた。病床でこれを聞いた露伴は、「馬鹿野郎!」と大声で叫んだ。病床の周りいる人々が震え上がるほどの大声であったという。木村名人という不動の王者がその地位を失ったことへの、満身からの哀惜であった。このときから、ほどなくして露伴は死に就いた。その2年後、木村が名人位に復帰したことを露伴は知らない。