梅雨のさなかに発生した台風3号。今日の天気は、10日前から雨、木曜日には大きな確率で大雨と予報されていた。台風の進路が関東をかすめて、太平洋の東海上へ抜けると予想された辺りから、今日の尾花沢は雨マークがとれ、曇りの予報となった。今月の山行は梅雨空のため、3週続けて中止となっている。頂上からの展望はあきらめ、幻想的な霧の風景を見ることに切り替えた。
尾花沢市細野。山形百名山の御堂森、太平山の2座の麓の集落である。朧気川の上流に位置する。ここのは縄文時代の細野遺跡があり、山地の恵みで命を育んだ縄文人が、この地区の先祖かも知れない。江戸の初めまで最上領で、細野村と称し、村の石高790石、家の数101、人口495人であった。
ものの本によると、ブナ林があるのは、ヨーロッパ、アメリカ東部と日本の3ヶ所に限られているという。中にでも日本のブナ林は、氷河期などで受けた被害が少なく、生き残りのもので、外国の研究者の垂涎の的であるらしい。日本では大陸のような大規模な氷河は発達せず、第三紀の植物群が失われずに生き残った。モクレンやトチノ木のような原始的な植物が見られ、ブナ林そのものが生きた化石なのだという。
山道には、春咲き誇ったイワウチワの大群落が、その葉を大きく広げ、花茎の先端には実をつけている。花はなくとも、その群落がいかに大きなものであったか容易に想像できる。
やがて瘤つきのブナが見えてきた。ここから、頂上への一番の急登が始まる。会の人たちも、3週間も山登りから遠ざかっているので、短いながらここの急登は、身体にこたえるらしい。登山口から2時間半、頂上に着く。春には雪に覆われていた山頂だが、草本や灌木が生えて、標識を見なければあの雰囲気はない。予想した通り、周辺の山の眺望はない。
ここで早めの昼食。雨の心配で、休憩を早めに切り上げて下山。登山口付近になって、雨がぱらつく。上だけカッパに着かえるが、間もなく雨は過ぎて行った。どの顔にも満足感が漂う。帰路、徳良湖のはながさの湯で汗を流す。雨と汗に濡れた肌に心地よい。
萩原朔太郎の少年時代の詩に「こころ」がある。生涯の友となった室生犀星を感嘆させた詩である。萩原はこころが移ろい、変化していく様相を紫陽花の花に譬えた。
こころをばなににたとへん
こころはあじさゐの花
ももおいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。
こころはまた夕闇の園生のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめど
かなしめどもあるかひなしや
ああこのこころをばなににたとへん
この詩が愛唱されて久しい。音楽家によって曲がつけられて、合唱曲となり、吟譜がつけられて詩吟として吟じられてもいる。大正から昭和の初め、朔太郎の生きた時代は、大きな嵐が吹き荒れていた。
ベランダでサフランモドキが咲き出すころ、キュウリの初物が採れ始める。若採りのキュウリは、生で味噌をつけて食べるとおいしい。キュウリを生で食べるのは、世界でも珍しいらしい。この原産地はヒマラヤ山麓と言われている。カラスウリのような恰好で、ゴーヤのように苦いのが原種である。日本に入ってきて食用になったのは、江戸時代で、ここで品種の改良が行われ、苦みのない江戸っ子に好まれるものとなった。
キュウリの特性として挙げられるのは、その生育の早さである。収穫の最盛期には、畑を二度見なけらばならない。朝、採り残すと、翌日には大きくなり過ぎて生食に向かなくなる。都市として急成長した江戸で、誰もが口にできる成長の早いキュウリは、うってつけの食べ物であった。江戸では、急増する人口対策として、山を削り海を埋め立てて、新しい土地ができた。膨大な生ごみ、下肥が近郊の農家で野菜作りの条件ができていった。日本各地から種を集め、近郊の農家に配布して食料増産が行われた。
水桶にうなづきあふや瓜なすび 蕪村
江戸っ子の初物好きも、キュウリの普及の一因になったようだ。加えて糠味噌漬け、一度に水分と塩分が補給できるのは、大いに魅力であった。今では、一年中、スーパーの店頭にキュウリが並ぶが、この時期の初物は、やはりおいしい。冷やした生キュウリのサラダにもよい。旬に合せて食べる、古来の習慣をもう一度思い出させるのが、この時期のキュウリだ。