常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

常念坊

2019年07月27日 | 民話

信州の松本から見える西山、三角形の存在感を示すのは常念岳だ。春から初夏、山の雪は次第に消えて、雪形を見せる。この山に住む常念坊が徳利を下げて立つ姿が見える。土地の人は、これを見て、さまざまな説話を生み出している。麓の酒屋に一人のお坊さんが、徳利を下げて酒を買いにやってくる。どう見ても五合徳利だが、そのお坊さんは、この徳利に酒を2升欲しい、という。酒屋の店主は訝しく思ったが、2升の酒をその徳利に入れてみると、すっかり収まった。お坊さん、金を払い、酒を受け取ると、山の方に向かって歩きだし、間もなく姿を消した。人々は、雪形を見て、酒を買いに来たお坊さんが、あの山で念仏を唱えていると信じるようになった。

イギリスの宣教師で登山家であったウェストンは、来日して日本アルプスに登り、『日本アルプス登山と探検』を著した。ウェストンは土地の猟師らの案内で、常念岳に登っている。登頂の前日、猟師の一人は、その名の由来が、この山に住む僧で、終日念仏を唱える常念坊によっている、としてこの僧の伝説を語った。数人の木こりが、この山の高価な木を伐り出そうと、登ってきた。いざ、目指した木に近づくと、どこからともなく念仏の声が聞こえてくる。木こりたちは、念仏の終りを待って仕事にかかろうとするが、一向に念仏が絶えることがない。とうとう木こりたちは、良心の呵責に恐れをいだいてその場を離れ、2度とそこに近かづこうとしなかった。これを聞いた村人たちが、いつも念仏を唱える僧のいる山、常念岳と呼ぶようになった。

深田久弥は、『日本百名山』のなかで、この猟師の話を紹介している。そして常念岳について

「松本から大町に向かって安曇野を走る電車の窓から、もしそれが冬であれば、前山を越えてピカリと光る真っ白いピラミッドが見える。私はそこを通るごとに、いつもその美しい峰から目を離さない。そして今年こそ登ろうと決心を新たにするのが常である。」 

と記している。

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狸弾三郎

2017年10月24日 | 民話


今日、人と山のかかわりは登山が主流で、山林に分け入り山の幸を求めたりや狩猟を生業にすることは少なくなっている。峠を経て山を越えて隣国へと行き来する道を実際に通ってみると、その道は今では想像できないような自然の姿が色こく見える。先週の山行でも、沢沿いの道わきの岩肌に、人が通れるような横穴を見つけた。熊の住まいか、或いは狩猟にたずさわった人が利用することもあったものであろうかと想像をたくましくした。

佐渡島の伝説に狸弾三郎というのがある。坂口安吾が『新日本風土記』で紹介している。人と山のかかわりが、狸との触れ合い通して暗示されていて興味深い。

弾三郎は金持ちであった。そのために、村人たちは度々弾三郎から金を借りた。借用の金額と返済の期限を書いた証文を、穴の口に置いてくる。翌日、あらためてそこへ行くと、穴の口に証文の代わりに金が置いてあった。ところが、村人のなかに約束の期日が来ても返さないものが増えきた。弾三郎は、金を貸さなくなった。だが、その後も物品だけは貸してくれた。婚礼などで、膳や椀などが不足すると、村人は弾三郎のもとへ駆けつけ、入用の品と返済日を証文に書いて穴の前に置いてくると、翌日にはそれらを取り揃えて穴の前に置いてあった。しかし、これも返済しない者が増えていったために、弾三郎は人間を信用しなくなり、交渉は絶えてしまった。

しばらく後になって、山から急病人が出たと医師を迎えに来たものがあった。医師が乞われるままに出向いて病人を診察し、薬を与えて帰ってきた。後日、全快した病人が大金を持参して医師のもとを訪ねてきた。名前を聞くと弾三郎であった。狸から謝礼を受けることはできないと断ると、その日は悄然として帰って行った。日を改めて、再び医師のもとへ弾三郎が来て、短刀一振りをさし出し、「謝礼を受けてもらえないのは苦しい。これは貞宗のうった名刀だから、これで私の感謝の思いを果たさせてほしい」と言い、返事も聞かずに逃げるように帰って行った。

人間が借りたものを返さずに感謝の念を失しているのに対し、狸がその思いを果たしているという民話は、人間もこうあらねばならないという教えの意味もあったであろう。話の終りで、この医師は狸の置いて行った刀を、無銘ではあったが、家宝にしたとなっている。

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千歳山阿古耶の松

2016年06月13日 | 民話


千歳山の山頂に阿古耶の松跡と彫られた石碑がある。年代の古いものと新しいものの二つだ。その碑を囲むように松があるが、写真のような松枯れである。山中の松はこの松枯れで何本伐り倒されたのか、数えようもない。大木は小さくされて積まれ、ビニールで覆われている。下へ運んで利用する様子もない。こんな松の姿を見て地中に眠る阿古耶姫はどんなに心を痛めているだろうか。阿古耶姫の伝説はいろいろに語り継がれているが、千歳山の頂上に亡骸を埋めたものがある。

中将姫に阿古耶姫という妹があった。父藤原豊成が罪を受けて遠国へ流刑となったとき、近侍の某が姫を連れて東国に逃れた。苦しい旅を続けて、某の故郷である出羽の平清水村に辿り着いた。淋しい片田舎で生きる甲斐もなかったが、忠義者の某の献身的な心づくしで、旅の憂さも忘れ、都へ帰る日を待ち焦がれていた。けれども、そうしているうちに姫は重い病の床についた。もう助からぬ命と悟った姫は、「死後は千歳山の頂上に亡骸を埋めて、しるしの松を植えて欲しい」と遺言し、短冊に辞世の歌を記した。

消えし世のあと問う松の末かけて名のみは千代の秋の月影

年を経てそのしるしの松は、阿古耶の松として語り継がれている。いまそのしるしの松は枯れて山中に積み重ねられる運命となっている。

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昔話

2016年06月01日 | 民話


河合隼雄『昔話と日本人の心』を読んだ。20年ほど前、岸田秀の精神分析に惹かれ、このジャンルの本を少なからず読んだ。河合隼雄の『昔話の深層』は大変面白く、食膳に食事の時間にも読んだ。そんな関係でこの本も次に読むべく買ったのだが、興味の分野がずれて本棚にしまい忘れた状態になっていた。今月になって村上春樹と河合隼雄の対談が読む機会を得て、しまい忘れていたこの本を読んだ。就寝前の床のなかで、一晩、2時間をかけ、10日ほどで読みあげた。

心理学のやや難しい語句があるものの、昔から聞かされていた話であるためで取りつきやすく、しかもその分析は大変興味深いものである。この本に取り上げられている日本の昔話は、「ウグイスの里」「飯食わぬ女」「鬼が笑う」「白鳥の姉」「浦島太郎」「鶴女房」「手なし娘」「炭焼き長者」などである。一方日本の昔話と比較する西洋の昔話には、「忠臣ヨハネス」「三つ目男」「シンデレラ姫」などである。西洋においては、物語の結論が、低い身分の女が王や王子との結婚となるのに対して、日本の昔話では結婚は無となってしまうケースが多いことを例証している。

そんななかで第9章意志する女性で取り上げられた「炭焼き長者」は、女性が自分の意志で許婚の息子と離婚し、貧しい炭焼きの男と結婚し、そこにある宝を発見して幸福になる特異な話である。西洋の昔話が父権の権威に結び付いた自我を特徴づけるのに対し、「炭焼き長者」では母権的性格つまり受動的な性格を乗り越えて、積極的で能動的な側面を持っていることを説いている。西洋の父権的自我が傷ついていくなかで、日本人の全体性を構築する象徴としてこの物語を見ている。村上春樹が、河合隼雄に興味を持つのはよくわかる。村上春樹の小説世界が、頭のなかで考えて作りだされているものでなく、主人公がなぜそんな行動をとるのかわからないままに創作が進められていく。村上春樹の小説世界は、小説家の無意識の世界から生まれる世界でもあるのだ。
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猿の恩返し

2015年12月31日 | 民話


昔あるところに子のないお爺さんとお婆さんがいた。お爺さんが山仕事をしていると、子猿が泣いている。訳を聞くと、親が死んで独りぼっちになって泣いているという。可哀そうになって家に連れて帰り、子猿を我が子のように育てた。猿が大きくなって、家の手伝いができるようになった、お婆さんに子どもが生まれた。お爺さんとお婆さんは、猿に子守をさせながら、山仕事に出かけうるようになった。

ある日のこと、猿は赤ん坊が遊んでいるそばで、夜に使う湯を沸かしていた。元気な赤ん坊が湯をひっくり返して湯をかぶり、やけとをしてしまった。赤ん坊は泣きだすやら、帰ってきた爺、婆が騒ぎ出すやらで、猿はどうしていいか分からずしょんぼりしていた。夜になって、お爺さんが寝ながら話をするのを、猿は別の部屋で聞いてしまった。「猿など育てるんじゃなかったなあ。おかげで子どもがひどいやけとをしてしまった。」

赤ん坊の火傷が、すっかり自分のせいになっていることを知って、猿は夜中、お爺さんたちが寝ているすきに赤ん坊を抱いて連れ出した。朝になって、赤ん坊も猿もいなくなっているのが分かり、さらに大騒ぎになった。「猿め、恩を忘れて、赤ん坊をさらっていくとは許せん」と怒り、山中を探し回った。探せど探せど、猿も赤ん坊もみつからなかった。2ヶ月も経ったころ、沢に湯気が立っているのが見えた。そこにはたくさんの猿が湯に浸かっていた。

お爺さんが行くと、猿たちはびっくりして逃げ去った。だが、一匹だけ逃げずにじっとしている猿がいる。よくみると、赤ん坊を抱いて湯に浸かっていた。お爺さんが、探していた赤ん坊である。猿は黙って赤ん坊を返すと、どこえともなく去っていった。赤ん坊の火傷はすっかり治り、元通り元気な様子だったので、お爺さんは安心して家に連れ帰った。ここは「やげぱずの湯」と言って、火傷を直す温泉だった。

この民話は、東根温泉に伝わるものである。もう一夜が明けると、新しい年が来る。干支は申年である。東根から尾花沢にかけて、猿の集団が出没して、果樹や野菜に被害が出ている。民話のような猿と人の関係は、すでに崩れさってしまったが、申年にはその関係が修復されるような対策を期待したい。
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