千葉県流山、おおたかの森。ここはその名のように、鷹の棲む森であった。何もなかった広い森が、東京のベッドタウンとして急発展している。雲ひとつない冬晴れ。ホテルの窓からくっきりと富士山を見て感動。かって江戸の人たちが、こぞって富士詣でをして気持ちも理解できる。市はこの街を、子育てをしやすい場所にと、保育の環境づくりに力を入れている。産休をもらっている孫は、もう産休明けから、ひ孫を保育園に入る予約を完了している。マンションの一階に、保育所が設けられている。出勤の時に預けて、帰りに連れて一緒に帰宅することが可能だ。
ここは昨年、孫の結婚式で泊っているが、ビルの建設が進み街の様子はすっかり変わっている。駅前に駐車して、ホテルを探すがなかなか見つからない。近所の店で聞いても、ホテルを知る人はいない。ふと上を見上げると、ホテルのロゴが見える。娘も久しぶりに来て、道に迷う有様だ。
孫を身近に初めて見る。実は、知らない人を見て、泣かれるのではと、内心心配していた。乳児の眸は、澄みきって何のくもりもない。その目で、じっとと見つめている。5分も見つめていたであろうか、口を開いて笑顔になった。遠い道のりの疲れも吹き飛ぶ瞬間だ。一度笑うと、笑顔が絶えなくなる。しばらくして、目が他へいくと、またあの眸で見つめてくる。顔を識別して、記憶にとどめようとしているのであろうか。この時から3日間、ひ孫を見、写真に収めて楽しい時間を過ごした。あと一週間もすると、離乳食が始まる。
高速を使って5時間余り、車で千葉に来るのもこれが最後。足が不自由な妻を連れて来るのも最後の機会かもしれない。娘も孫も、これからは皆で山形へ来ると言う。一年を締めくくるように来た千葉でひ孫や孫たちからたくさんの元気をもらった。食事の店は、ずっと満席。七五三のお祝いをかねた集まりで大勢の人で賑わっていた。
山形駅から新宿南口にバスターミナルまで、利用したのはウィラーエクスプレスの高速バスである。バスを選んだ理由は3つある。第一に料金の安さ。一人4500円だが、妻が持っている障害者手帳を示せば2人で4500円、帰りは割引があって二人で4200円。第二はバス旅行に馴れていること。詩吟の他県への移動は、ほぼ貸し切りバスだ。要所でのトイレ休憩がある。食事もお土産を買うのも手頃だ。第三はチケットのネット購入で手軽な点だ。日取りを決めると、パソコンに向かうと瞬時に購入できる。ウィラーはスマホでもパソコンでもスムーズ、分からない時の電話対応も懇切である。
あいにくの雨であったが、3度の休憩と都内の渋滞含めて所要時間7時間、10時半に出て、17時には新宿のバスターミナルに降り立った。そもそも新宿とはどんな街か。かなり昔に買った講談社現代新書の『東京情報コレクション』にあたって見る。作家の本岡類の文によると、この街で彼女とデートするのは難しいらしい。高層ビルが乱立し、その上道路、鉄道、地下道が重層化して通っていて、地上を歩くと、自分がどこにいるか、分からなくなる。これは、田舎から10年ぶりに出てきた自分のようなものでなく、長年東京で暮らしている人もそうであるらしい。
どこの道でも隈なく走っているライダーの証言が載っている。「あの野村ビルとか新宿センタービル、三井ビルとかがゴチャゴチヤ建っている一角があるでしょ。あの間の道に入りこむと、一瞬、どこに向かって走っているかが分からなくなる。それと京王プラザホテルの裏側の道ね、あそこの道路が上と下二段に入り組んでいるから、ビル街にしては異次元的な風景で、これまたドキリとしてしまうんだね。」
我々はあくまでもお登りさん、そんな迷路のようなビル街を歩くでもなく、曲がり角ごとに表示してあるJR新宿駅へ向かい、そこで山手線に向かう。電車に乗って降りる駅は上野、そこで常磐線に乗り換えて馬橋の駅で流電の流山に向かう。ここが娘の住んでいる街だ。外はかなり強い雨。孫と義息が傘を持って駅に迎えに出ていた。
夜、近くにある寿司店「豊後」で夕食。日馬富士、稀勢の里などの力士の色紙が飾ってあった。ここは相撲部屋にも近いので、ここに来る力士も多いらしい。貝の吸い物と握り寿司が美味であった。翌日は、柏に出て、みのりの湯で温泉に浸かり、夕方から孫の婚約者と合流して食事の予定。最後の日曜日は、連絡のとれない長女のいる保谷へ。結果は、良樹君の明るい好印象、娘が体調悪く、明日検査入院ということを聞き、嬉しいことと心配なことが重なった三日間の旅であった。
岩根沢は、国道112号線を月山ダム方面へ向かい、水沢の奥にある小さな集落である。近くには、本道寺という集落もあり、志津と並んで、月山登拝口になっており、道者が泊まる宿坊のある集落でもある。山間に肩を並べるような小さな集落であるが、かつてここに小学校があり、この地に疎開していた詩人の丸山薫が、教師をしていたことでも知られている。
バスに揺られて細い村道を通り、神社の駐車場から、石段の上に聳える神社の荘厳さに圧倒される。かかる小さな集落に、かくも壮大な神社があること自体大きな驚きである。この社の前身となるのは、嘉慶年間(1387年)に建立されたものだが、その後三度の火災を経て、現在の建物になったのは江戸末期天保年間のことである。
この神社が創設されて以来、山形県に村山地区、宮城県、福島県から登拝する道者の大半は、ここを入り口として利用していたと言われる。因みに斎藤茂吉は、父に連れられ湯殿山に成人の初詣をしているが、その時の登拝口は本道寺であった。2階に貴賓室があるが、ここの茂吉の資料も展示されていた。大きな本堂は数百人の参籠も可能と説明されたいたが、月山信仰がいかに広く行われていたかを示す証左である。
本堂の脇には、道者の食事を作る台所があるが、天井を突き抜くばかり八角柱があり、大きな大黒や恵比寿の木像が安置されている。
6月21日、ふれあい自然探勝会に参加して人々は地区の40名。岩根沢の三山神社を見学したあと寒河江ダムを見学。12時に始まったダムの噴水をバックに記念撮影。ダムの規模の大きさにも、改めて驚かされた。昼食は山菜料理の出羽屋で舌鼓。鍋いっぱいの山菜汁を付けて、手打ちの蕎麦を堪能。
この年になると、旅をすることは、懐かしい顔や風景を再確認することである。同じ意味に使う客は、身を寄せるという意味である。懐かしい友人や親戚に会ったりするのは、こちらを使うのが正しいのかも知れない。北海道と流山、そして沼津への旅はまさに知古へ身を寄せ、もうこれが最後の逢瀬かも知れない別れの意味がどこかに含まれている旅であった。それだけに、いだき続けてきた感謝を吐露し、その心情を通わせることで、大きな喜びを共有できた旅でもあった。
今日、新幹線で、家に帰る。
晩に向かひて茫々として旅愁を発す
王昌齢の詩の一節である。茫々とは、ぼんやりとしてはっきりしないこと。旅愁は、つかみどころのないぼんやりととした愁いだ。おそらく、夏の万物を奮い立たせる季節が去って、枯れていくことへの憂いであろう。それだけに、そんななかで若かりしころの記憶をよびさましてしてくれる知己との再会の喜びは大きい。
話はそれるが、漢和辞典で旅の項をひくと、軍隊という意味が最初にあげられている。会意文字で旗を持って人が多く集まっていることを指しているらしい。さしづめ、旗を持った添乗員が、多くの旅人を連れて名所を案内して歩くのは、この会意文字が表していると解釈すべきであろうか。沼津漁港の朝飯食堂で、やまかけ丼を食べた。
千歳空港から山形空港までのフライトは、約1時間、FDAの小型機である。帰路、千歳空港で時ならぬ雨に見舞われた。空は真っ黒な雲に覆われ、大粒の雨が空港の滑走路にたたきつけるように落ちてきた。バスからタラップに登るのだが、サービスの人たちが傘をかかげ、飛行機の雨除けまでわずか数10㎝の隙間しかないのに、それでも雨に叩かれて、ワイシャツがたちまちに濡れた。着陸してくる飛行機を待ちながら、離陸が10分ほど遅れ、その間に雨が上がった。離陸後、数分で雲を突っ切り、たちまち雲の上に出る。青空が広がり、突き抜けてきた雲が、積乱雲であったことが目視できる。小型機であるが、飛行は安定している。
それにしてもこの4日間を、何と表現すればよいのか。5年ぶりに会う兄弟と甥、姪、10年ぶりに会う旧友と恩師、高校を卒業して始めて会う顔。一晩世話になり、妻を亡くしたばかりの友人は、その来し方を、読んできた大切な本にふれながら、口をつくように、時間を忘れて語った。こんなに、自らの生きざまについて、長い間話しあったのは、長い人生ではじめて経験であったような気がする。クラス会に出てきた人たちは、元気な人ばかりだが、そのかげには、毎回参加しながら、亡くなったり、体調を崩して参加できなくなった人もいる。喜寿を迎え、これからは何が起きるか予測できない年代に達している。それだけに、会うことが、とても大事になっている。
今回の北海道の旅で得たものが二つある。20年近く続けてきた詩吟を、旧友たちに披露できたこと。吟題は吉田松陰「親思ふ」、優秀吟コンクールで吟じたものだ。酒の席で、話が弾んでいたが、会場に吟声が響くと、一瞬静まって、吟を聞いてくれた。そこそこ、詩吟が人々の耳に達することができたように感じて、吟じながら感動を覚えた。
二つ目は、ラインの友達が3名増えたことである。ラインは若者のものと思っていたが、スマホの所有者が5名ほどおり、喜寿になってもSNSでコミニュケーションをとれることが分かった。こちらでは山登りや詩吟の仲間と、気軽にラインで連絡を取り合っているので、その輪が北海道の旧友の間にまで広まったことがうれしい。来年のクラス会はもう日程も決まった。まだ参加の約束は表明していないが、それまでさらなる健康の精進が必要になる。