吟詠大会の和歌の部で多く吟じられたものに安倍仲麿の「唐土にて月を見てよみける」と題する和歌があった。
天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出し月かも
百人一首にも入った人口に膾炙した歌である。天の原は青海原と書かれているものもある。空が広がる様をこう表現した。夜、この広い空をはるかに見渡せば、月が面白く出ている。あの月は、ふるさと奈良の都の三笠山から出ている月と同じであるが、長く唐土に住んでいてそうは感じなかったが、ここ明州でふるさとへの出発を前に別れの宴を開いてもらい帰ることを意識したゆえか、あの月を見ると三笠山から登った月が思い出され、ふるさとに思いがいくことだ。
望郷の歌である。安部仲麿は、霊亀2年(716)元正天皇より遣唐使として唐へ渡り、留学生として唐へ残った。私は子どものころ、百人一首にまつわる伝説を祖母の夜語りで聞いた。テレビも電燈も絵本もない時代である。寝入る前ふとんの中で、祖母はすらすらと歌を詠み安部仲麿の話をしてくれた。
「同じ留学生にな、吉備真彌という秀才もおったそうじゃ。このとき仲麿はまだ16歳であったとよ。歌や詩をつくることが上手だった仲麿は、皇帝からも認められて、唐の役人になったぞよ」岐阜から北海道へきた祖母も、仲麻呂の歌のように、夜月を見てふるさとへ思いをやっていたのかも知れない。
「唐の国は広いでの、僻地へ蛮族の護りのため派遣されるとな、僻地の月を見て、親、兄弟も友人も同じ月を見ているなと国へ思いをやるのだそうな。この歌の意味を唐の国の詩になおしたら、宴席に集った友人たちは大いにほめてくれたそうな。なんでも王維とか李白とかいう高名な詩人もいたそうじゃ。だがの、舟に乗って帰ろうとしたんだが、大風にあって舟は海を渡れず安南という地へ打ちあげられて帰国を果てせずにしまったとよ。」
話は吉備真備へいく。
「一緒に留学した真備はな、詩を作るが仲麿のようにうまくなかったそうじゃ。だが、秀才でな学問に優れておった。唐の国のお役人に頼んで、史記、漢書などの唐の本をたくさん買い込んで日本に帰ってきたんじゃ。日本の国を作るもとになる大事な本じゃった。だからの真備は日本の朝廷で学者になって、若い官吏に唐の政治や詩や学問を教えたそうじゃ。真備の位はどんどん上がっていったんじゃ。」
「天皇は国作りに役立つ学問をもっと取り入れたいと思ってな、真備をまた唐に遣わしたんじゃ。真備は唐に入ったんじゃけど、今度は唐の役人は、真備が秀才だとの評判があんまり高いもんじゃから、妬んで試してみたそうな。長安につくとすぐに、真備は鬼の出る楼に閉じ込められてしまったとよ。高い楼でな、そこから降りることもできず、食べるものもなかったんじゃ。」
「夜になって、鬼が真備のいる楼に姿を見せたんじゃ。鬼は真備に意外なことを話したとよ。わしは、そなたと一緒に留学した安部仲麿だ。わしの詩が上手なことを妬んだ役人たちが、ここに閉じ込めての、食うものもなく、飢えて死んでしまったんだ。だが、奈良の都にいる親兄弟が忘れられぬ。いまどうしているか、教えてくれ。真備が、みんな息災でいると告げると、この鬼になった仲麿はよろこんでの、そなたにこの国の役人が企んでいることをすべて教えよう、と言ったんじゃ。」
「第一はな「文選」という難しい本を読ませて、真備が間違えるのを笑ってやろうとしている。鬼の仲麿は、皇帝の前で儒者が「文選」を読むのを一晩中聞かせて、真備が覚えてしまうのを助けたんじゃ。第二はな、囲碁で真備を打ち負かそうとしているとよ。囲碁を知らない真備に、鬼の仲麿が一晩特訓して教えたんじゃ。それで、真備は囲碁の上手1目勝つことができたんじゃ。第三はな、高名な宝志和尚の詩を読ませるという。これには仲麿も神仏に読ませてくださいと、お祈りするしかなかったとよ。そうしたら、一匹の蜘蛛が、その詩の上を這い歩くので、それにそって読むと、なんと正解じゃった。」
「第四はな、役人は真備をまた楼に登らせて食事も与えない、という戦術に出たんじゃ。
そこで鬼の仲麿が持つ双六の筒に唐の国の日月を閉じこめてしまったんじゃ。あたりは真っ暗、驚いた役人が確かめると、真備が秘術を使って日月を閉じ込めてしまったことがわかった。そこで、真備を楼から下ろし、早々に帰国させたんじゃ」
江戸時代に生まれ、学問を習ったこともない祖母が、どうしてこんな話を知っていたのか、知る由もない。祖母は農作業に忙しい一家の食事をまかない、家の周りを片付け、小さな子どもたちの面倒を見、そして一家の大黒柱である父に、助言をしていた。朝、朝食の前に、湯飲み茶碗に一杯の焼酎を飲むのが日課であった。仲麿の一首の歌から、こんな祖母の思い出が蘇ってきた。