平敦盛は笛の名手であった。武門で出世街道を駆け上った平家一門は、公家の作法を見習い笛や太鼓の業を身につけていた。清盛の弟である経盛の末子である敦盛は、笛の業がとくに優れていた。祖父の忠盛がやはり笛の名手であったので、鳥羽院から名高い小枝の笛を賜り、その笛を父から譲りうけていた。小枝の笛は、また青葉の笛とも呼ばれていた。
一の谷の奇襲で逃げ場を失った平家の武将たちは、最後の夜を笛やひちりきを奏でて別れの宴を城中で催した。そこで吹いた敦盛の笛は満座の一門に感動を呼び起こした。「敦盛殿の笛は格別よのう。これで、もはやこの世に思い残すこともないわ。」口々に賞賛の声をあげながら、沖の御座船へと逃れていった。
敦盛も一門の武将とともに海中に馬を進めた。その時である。敦盛は大切にしていた笛を城中に忘れてきたことに気がついた。すぐさま、馬を返して笛を取りに戻った。再び海中に馬を進めたころには、一門の人々の姿は見えず、後を追う源氏の武将の姿が近づきつつあった。そのなかで奇襲で功をあげそこなった熊谷直実が、敦盛が逃れていく後ろ姿に呼びかけた。
熊谷、「あれはいかに、よき大将軍とこそ見参らせて候へ。まさなうも敵に後ろを見せ給ふものかな。返させ給へ、返させ給へ」と扇をあげて招きければ、招かれて取って返し、むずと組んでどうと落ち。
平家物語には、この名場面を緊迫した筆致で描いている。熊谷直実が組みあって、いざ首をかこうとして、鎧の下の顔を見れば、鉄漿をつけた年若く美しい公達であった。我が息子の年頃の武将を見て、「名を名乗れ、しからば命は助けて進ぜよう。」「いや名乗りはしない。我が首をかけば恩賞間違いない。誰に見せてもすぐに知れようぞ。」そこへ、源氏の名だたる武将が駆けつけてきた。もはや、我が手にかけて、後を弔わんと、直実は泣く泣く敦盛の首を取ったのである。
青葉の笛 松口 月城
一ノ谷の軍営 遂に支(ささ)えず
平家の末路 人をして悲しましむ
戦雲収(おさ)まる処 残月あり
塞上(さいじょう)笛は哀(かな)し 吹きし者は誰ぞ゛
松口月城は平家が一の谷城における一門別れの宴の哀れを詠んだ。その後、この詩は多くの吟詠家に愛吟されてきた。権力の簒奪の方策として、戦争が繰り返し行われてきたが、その裏に人間の悲劇が埋もれてきた。
偉人・歴史人物 ブログランキングへ