常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

月山初冠雪

2014年10月31日 | 日記


昨日の新聞で、月山の初冠雪が報じられた。冠雪が見られたのは、月山、朝日連峰、雁戸山、滝山など。昨年より12日遅い冠雪である。因みに鳥海山は15日に冠雪をしているという。山形市にある公園の池では、冬に飛来するカモが遊ぶ姿が見られた。

山形の紅葉公園には、紅葉を訪ねる家族連れで賑わっていた。しかし、紅葉はいま少し早いようで、来場した人たちは、口々に「本当にきれいなのは、もう少し後だね。」と話していた。池では番の鴨が、鳴き声をだして連れに注意を与えながら、時に羽ばたき、ときに泳ぎながら餌を求めていた。

日輪がゆれて浮き寝の鴨まぶし 水原秋桜子

真鴨は大部分が10月初めに渡来して越冬すると、また北へと帰って行く。しかし、一部分には帰らずに留鳥となるものもある。カモの肉は美味で、昔からネギやセリとともに煮るカモ鍋が珍重された。

芹の上鴨昼寝してうなされる 誹風柳多留


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青葉の笛

2014年10月30日 | 詩吟


平敦盛は笛の名手であった。武門で出世街道を駆け上った平家一門は、公家の作法を見習い笛や太鼓の業を身につけていた。清盛の弟である経盛の末子である敦盛は、笛の業がとくに優れていた。祖父の忠盛がやはり笛の名手であったので、鳥羽院から名高い小枝の笛を賜り、その笛を父から譲りうけていた。小枝の笛は、また青葉の笛とも呼ばれていた。

一の谷の奇襲で逃げ場を失った平家の武将たちは、最後の夜を笛やひちりきを奏でて別れの宴を城中で催した。そこで吹いた敦盛の笛は満座の一門に感動を呼び起こした。「敦盛殿の笛は格別よのう。これで、もはやこの世に思い残すこともないわ。」口々に賞賛の声をあげながら、沖の御座船へと逃れていった。

敦盛も一門の武将とともに海中に馬を進めた。その時である。敦盛は大切にしていた笛を城中に忘れてきたことに気がついた。すぐさま、馬を返して笛を取りに戻った。再び海中に馬を進めたころには、一門の人々の姿は見えず、後を追う源氏の武将の姿が近づきつつあった。そのなかで奇襲で功をあげそこなった熊谷直実が、敦盛が逃れていく後ろ姿に呼びかけた。

熊谷、「あれはいかに、よき大将軍とこそ見参らせて候へ。まさなうも敵に後ろを見せ給ふものかな。返させ給へ、返させ給へ」と扇をあげて招きければ、招かれて取って返し、むずと組んでどうと落ち。

平家物語には、この名場面を緊迫した筆致で描いている。熊谷直実が組みあって、いざ首をかこうとして、鎧の下の顔を見れば、鉄漿をつけた年若く美しい公達であった。我が息子の年頃の武将を見て、「名を名乗れ、しからば命は助けて進ぜよう。」「いや名乗りはしない。我が首をかけば恩賞間違いない。誰に見せてもすぐに知れようぞ。」そこへ、源氏の名だたる武将が駆けつけてきた。もはや、我が手にかけて、後を弔わんと、直実は泣く泣く敦盛の首を取ったのである。

 青葉の笛 松口 月城

一ノ谷の軍営 遂に支(ささ)えず
平家の末路 人をして悲しましむ
戦雲収(おさ)まる処 残月あり
塞上(さいじょう)笛は哀(かな)し 吹きし者は誰ぞ゛

松口月城は平家が一の谷城における一門別れの宴の哀れを詠んだ。その後、この詩は多くの吟詠家に愛吟されてきた。権力の簒奪の方策として、戦争が繰り返し行われてきたが、その裏に人間の悲劇が埋もれてきた。

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新そば

2014年10月29日 | グルメ


昔の勤め先の近くにあったそば屋、羽前屋に一年ぶりで行ってきた。この季節は新そばを打ってくれる。ふと切りのそばが香りが高く、甘く感じる。朝夕に気温が下がって空気がぴんとはるなかで、収穫したばかりのそば粉は、やはりこの時期しか味わえない独特の味わいだ。輸入ばかりに頼っていたそば粉でが、減反した田んぼにそばを植えて、地元のそば粉も多く使われるようになった。数年前まで直接農家からそば粉を買って、自分でそばを打ったことが懐かしい。本当の新そばの味は、それでしか味わえない。

新蕎麦は物も言わずに人が増え 川柳

そば切りは、江戸時代の前からで精進料理として食べられていた。そばの実を殻をむきそのまま炊いたり、雑炊にして食べた。または蕎麦粉を熱湯でこねたものに醤油をかけたそばがきにして食べていた。上方で食べていた麦きりをまねてそば切りにして食べるようになったのは、江戸も半ば安永年間のころである。江戸の蕎麦は、盛りそばが代表格である。とくに江戸前の盛りそばは、その量が極端に少ない。いまでも東京の有名店で蕎麦を注文すると、あっという間に食べ終わる少なさだ。

その点、山形の田舎そばは量が多い。「板そば」というのは、山形特有に盛り方だ。大盛りと注文するのではなく、この店では羽前盛り、某店では「厚盛り」、「家族盛り」などその量を誇る盛り方である。田舎蕎麦のサービスに「千円食べ放題」というのもある。車で1時間半くらいのところへ腹を空かして挑戦したが、丼に盛ったそばを4杯食べてギブアップであった。そんな田舎そばも、この時期の新そばはおいしい。

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枯れ葉

2014年10月28日 | 日記


日本の秋はもえたつような山紅葉が、そのシンボルであるが、欧米では風に吹かれる枯れ葉ということになる。1960年代に流行したイブモンタンのシャンソン「枯れ葉」が懐かしい。その歌うフランス語の意味は少しも理解できなかったが、越路吹雪や岸洋子の日本語バージョンでその歌の意味を解していた。

枯れ葉よ 絶え間なく
散り行く 枯れ葉よ
風に散る 落ち葉のごと
冷たい土に
落ちはてて 過ぎた日の
色あせた恋の歌

その歌は失ってしまった恋によせる、憂いと嘆きの歌であった。映画の主題歌であったような気がするが、今はそのメロディだけが記憶に残っている。20歳になったかどうかの年頃に、この歌を聴いたが、そのメロディを口ずさむことに、大人の仲間入りをしたような錯覚を覚えた。枯れ葉には色はなく、風に吹かれる寂しさだけが伝わってきた。


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菊の花

2014年10月27日 | 農作業


畑に植えた菊が咲いた。観賞用の菊ではなく、食用菊「黄もって」である。浸しにして食べるため、花の部分を摘み取った。朝露を含んだ菊は香りも高く、これが不老長寿の食べ物として用いられたことになんとなく納得する。菊酒は、酒に菊の花びらを浮かべて飲む。陶淵明はこれを憂いを払う秘薬として愛用した。

「着せ綿」という菊の珍しい利用方法が古来用いられてきた。菊の花に前夜から真綿をかぶせて
夜露ととも菊の花のエキスを吸わせ、その綿を着せたり、またその綿で顔や肌をぬぐうことで老化を防ぎ、若々しい肌を保たせようとした。清少納言の『枕草子』にもこの着せ綿の記述がある。
「九月九日は、あかつきがたより雨すこしふりて、菊の露もこちたく、おほひたる綿などもいたくぬれ、うつしの香ももてはやされて、つとめてはやみにたれど、なほくもりて、ややもせばふりおちぬべくみえたるもおかし。」

若返りの秘薬として人々は着せ綿をもてはやしているが、天候は曇ってまた雨を降らせそうな気配である。清少納言には、人の生もまたこのようにはかなく見えていたのかも知れない。

「菊慈童」という能の演題がある。中国の太古、周の国の穆王に愛された慈童という美少年がいた。慈童はあるとき誤って王の枕を跨いだ罪で南陽の山奥に流される。それから七百年後、魏の国の文帝の勅使が、南陽へ薬水を採りに遣わされる。その山中で勅使は菊の花に埋もれた慈童を発見する。七百年の歳月が経っても、慈童は美少年のままであった。慈童は穆王から賜った法華経の偈を菊の葉に書いて流れに浮かべると、葉からしたたる滴が不老不死の薬となったという。


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