松尾芭蕉が山中越えをして、仙台藩の堺田の関所を通過し、新庄領の封人の家に
着くのは元禄2年5月15日(旧暦・新暦では1689年7月)のことである。
現在の現地の様子はすでに開けて、芭蕉が通ったころの面影はないが、「奥の
ほそみち」の紀行ではその急峻で山中の荒廃した道は焦眉の場面である。
あるじのいはく「これより出羽の国に、大山を隔てて、道さだかならざれば、
道しるべの人を頼みて越ゆべき」よしを申す。「さらば」と言いて、人を頼み
侍れば、屈強の若もの、脇指をよこたへ、樫の杖を携て、我々が先に立ちて行。
あるじの言うにたがわず、高山森々として一鳥声聞かず。木の下闇、茂りあひ
て夜行が如し。雲端に土ふる心地して、篠の中、踏分ふみわけ、水をわたり、
岩につまづいて、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。」
こんな急峻の道をいま体験できるのは、山刀切峠やその近辺のを登ることだ。
私は3月3日に大明神山、3月17日に糠塚山に登った。
特に糠塚山は、封人の家のすぐ近く、笹森集落の神社から行く700mの急峻な
山だ。
芭蕉は木の下闇をくぐってな山刃切峠を越しているが、3月糠塚山深い雪の中
であった。冬靴にカンジキを履いて、深い雪をラッセルしながらの登山だ。
麓の道は比較的になだらかだが、糠塚山は急登だ。一歩一歩雪を踏みながら
登る。
頂上に近づくにつれて、周囲の山や眼下の光景が目に飛び込んでくる。芭蕉が
通ったであろう重なり合った山々がそこに見えている。地形図を見れば、この
急峻な糠塚山の周囲にも道が縦横のつけられている。
そんな道のなかった芭蕉の時代の風景が雪をかぶった山々の向こうに見えてい
た。
蚤虱馬の尿する枕もと
封人の家で芭蕉はこの句を詠んだ。山中のこの家で、芭蕉は風雨に閉じ込めら
て3日間の滞在を余儀なくされた。
ここから山刃切峠を越えて出羽の国へ行くのは、尾花沢の紅花商、鈴木清風に
会うためである。
奥のほそ道の旅の、目的のひとつであった。