常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

六月逝く

2024年06月30日 | 日記
今日、6月30日。一年の半分が終わることになる。田の稲は大きく育ち、やがて開花を迎える。散歩道にはスモークツリーやムクゲ、タイサンボクといった夏の花が咲いている。母親に手を引かれた小さな子が、笑顔を向けて手を振っている。間もなくひ孫が2歳の誕生日を迎えるので、小さな子の動作が気になる。恥ずかしがって隠れようとする子も多いが、笑顔を向けて老人に気を向ける子も、最近は増えたような気がする。「かわいいね。」と思わず声をかけると、若い母親が「ありがとうございます」と返してくれる。人とのつながりは、こんな何気ない挨拶から始まるのかも知れない。

今年の山形のサクランボはかってない不作であった。六月になって例年のように買いに出かけたが、近くでは売り場には、売れ残りのパックが少々。産地の東根の産直に出向いたところ、駐車場には長蛇の車列、売りが出はレジを待つ人の列に続いて、発送するスペースでも荷を抱えて待つ人の長い列。こんな光景を見たのは初めてだ。昨日のニュースで今年の山形県のサクランボの生産量は例年の6割。高気温のため、色づいてからサクランボがいい状態を保つ期間が極めて短かったと発表された。この高温傾向はしばらく続くらしいので、サクランボの産地は、さらに北の方へ移動する。品種改良などで、この傾向を止めるのは難しいらしい。コメの生産も同じことが言える。昨年の山形米は、高温のため白濁したのもが混じり、等級を落とした。かっての新潟コシヒカリはもう見るかげもない。南の果実で有名なマンゴウは、静岡で収穫できるようになっている。気候の影響は、暮らしにどれくらい影響するか、不安を覚える半年であった。
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さつきやみ

2024年06月28日 | 日記
最近、夕焼けがきれいに見える。梅雨入りしたのに、この地方は晴れた日が多く、そのためにきれいな夕焼けになる。太陽が燃える夏の空が、夕方になると、まさに絢爛たる光が日没ころの空を染める。この季節は、本来なら雲が多く、一段と暗い夜がさつきやみだ。曽我の敵討ちで、工藤佑経の陣屋に兄弟が忍び込むのは、旧暦の5月28日であった。これは月の出も遅い、暗い夜を狙ったものであろう。最近の夕焼けを見ていると、このさつきやみという言葉も忘れられたような、空の演出が行われている。

ベランダのトマトの成長が早い。花が咲く順番に花の数だけ実が生る。花はひと房に5、6個花をつけるから実も同じ数生る。同じ房でも、茎の付け根の方から順序よく咲く。早い花がいち早く実がなり、房のなかでも大きさに異動がある。木全体からすれば、根の近くに一番花が咲き、花は木の伸びに従って上へ、上へと咲いていく。青い実が目いっぱいに大きくなると、成長した順番で赤く熟していいく。この成長の様子を見ただけで、トマトの熟度が一つとして同じものはない。房全体が完熟するには、最後に咲いた花に合わせて待つ必要がある。トマトは南米のペルーが原産地である。ナス科の植物で、ナスの親戚である。江戸時代には、日本に渡来しているが、現在のように食べるようになったのは、昭和の初めで、自分が生まれた少し前ということだ。

ペルーだから熱帯だから、暑さに強いと思われがちだが、標高が高く朝夕はぐんと気温が下がる。自分の生まれた北海道でも、どこの家でも栽培していた。その当時でも、木で完熟したトマトは美味で、独特の香りがあった。今もトマトの水やりで、昔のトマトの香りを思い出す。

青臭きトマト食うべて刀自の健 久米三汀
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生きがい

2024年06月26日 | 日記
梅雨の晴れ間。天気予報で、こんな言葉が出た。梅雨といっても、雨が降る地方が限定されている。一日の曇りだけで、東北に入梅が宣言された。その後も、雲は多いが梅雨らしい雨はほとんどない。九州や西日本で、豪雨となっている。梅雨の晴れ間、場違いな言葉になっている。初めて知る花、ストケシアが美しい。食卓にしゃれた夏野菜が並んだ。チーズをのせて焼いたズッキーニ。赤いミニトマト、ベランダで育てたバジルを付け合わせに。バジルの香りが食欲をそそる。

年齢とともにできることが少なくなって、生きがいも失われると思っていた。だが、二歳を迎えるひ孫の笑顔をみるだけで、生きる喜びは衰えない。神谷美恵子『生きがいについて』の中で述べられている。「フランスで語られているのは、青年時代は恋愛、壮年時代は仕事への野心、老年時代はどん欲」とあるが、果たして老年時代は、叶えられない欲求へのあくなき希求ということであろうか。少し首をひねる。生きがいを失って絶望した青年が、池で溺れかけている子どもを見つける。彼は、何も考えることなく、池に飛び込み少年を助ける。青年は自分の行為を通して、その子どもに救われる。生きがいを失い絶望していた青年は、自分役立てることができることに気づく。人のためになること、その社会性が生きがいであることに気づかせせてくれたのだ。

佐藤一斉の『言志四禄』に「老人のいましめ」の項がある。先人の考えを、聞いてみるのも、高齢になった者の行うべきことのひとつだ。訳文で示す。
「論語によると、老人になってから、戒めるものは「得」にあるということだが、「得」の字は何をさしているか知らなかった。が、自分はすでに老人であるから、自分の心でこれを証拠立てて見るに、昔、血気盛んな時には、欲心もまた盛んであった。今になっては、血気が衰え、欲念もややあっさりしてきたように覚える。ただ長生きしたいと思ったり、子孫が無事安楽に暮らして行けるように営んでやろうとする考えが、昔に比べてやや強くなっているから、「得」の字は或いはこの類を指し、必ずしも財産を得たり、物を得たりすることは指さないのであろう」とし、一斉は長生きをしたり、子孫の幸福などは天命に任せるほかはないと、説いている。天の命ずるままに生きる、ということはなかなか深い意味がある。
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季節違い

2024年06月25日 | 日記
入梅というのにまとまった雨が降らない。雲は多いのだが、パラパラとい感じの雨が通り過ぎると、一気に気温が上がる。花も梅雨時のアナベルやアジサイに交じって夏ツバキ、ムクゲなどの夏の花、木陰にコスモスも咲いている。花にとっても、この季節、咲くべきか、咲かざるべきか、大いに悩ましい季節なのだ。植物たちの間隔を狂わせてしまうほど、いろんな季節が混じりあっている。ここでは少雨に農家が悩んでいるのに、西日本や関東の一部では、梅雨末期の大雨が降っている。ひと月ほど前高騰して手の届かなかったキャベツが、一転捨て値のような状況で市場に出回っている。産地のキャベツが出回ると、価格維持のために廃棄処分すら起きかねない状態である。

今年は、近所の庭に、夏ツバキが咲いている。こんなにも好まれて植えられるのかと、いまさらのように知らされた。別名ヒメシャラともいう。仏教で名高い沙羅双樹があるが、熱帯性の植物のため日本では育たない。お寺などで、その代わりととして、夏ツバキ(ヒメシャラ)が植えられたという説もある。芥川龍之介もこの沙羅の花が好きだったと見え、詩にこの花を書き残している。

また立ちけへる水無月の
嘆きを誰にかたるべき。
沙羅のみづ枝に花咲けば、
かなしき人の目ぞ見ゆる。(芥川龍之介「相聞」より)

こんな詩を思い出しながら、夏ツバキの花を見ると、この白い花は美しい人の涙をたたえた目に見えなくもない。
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梅雨入り

2024年06月24日 | 日記
昨日、東北全体が梅雨入りし、北海道と梅雨の明けた沖縄を除くと、全国的に梅雨に入った。北海道は昔から、梅雨というものがない。近年の気象の変動で、これまでの常識が崩れてしまっているから、北海道が雨がちになるとここも梅雨入りと言っても一向にかまわないのではないか。『季節の事典』という本に梅雨の解説がある。それによると、

もっともらしい説としては、ウメの実がちょうど実るころに降る雨であるからといい、また梅雨は黴雨、すなわちかびの雨であってこの季節には雨が多く、かびが生えやすいからであるともいう。また梅雨とかいてつゆというのは、木の葉などにおりる露のことであるといい、またつゆはつひゆから変化したのもで、この季節はかびが生えたりしていろいろのものがそこなわれるからである。など、など実しやかな言説が紹介されている。

梅雨に堪ふこころ幼く身は老いて 相馬遷子

次々に花の季節が終わっていく。キンシバイがわずかに咲き残り、ビヨウ柳も一輪だけ残っていた。遠くから見ればどちらも同じような花に見えるが、蕊の長さがその区別になっている。どちらもオトギリソウ科の植物だから、似ていて当たり前だ。西洋オトギリソウの名がついている。キンシバイは中国産で金糸桃が正統な名であるらしい。
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