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ふるさとの蔵の白かべに鳴きそめし蝉も身に沁む晩夏のひかり 茂吉
ふるさとの蔵とは、生家の東に立っている蔵屋敷ことである。今も塗装したのか、目にしみるような白壁がある。俳句の歳時記を引くと、晩夏は夏過ぎる、夏終わるを縮めて晩夏にした、書いてある。秋風を感じる一歩手前の微妙な季感、とも書いてある。一匹の蝉がその壁にとまって鳴いている景色に、晩夏の光りに重ねたのは茂吉ならではの感性である。
小泉八雲もその季節を好んだらしい。『日本の庭』という小品のなかで、この季節について書いている。
「蝉だけが庭の音楽家ではない。中に目立つのが二種類あって、蝉のオーケストラに伴奏をする。その一つは鮮やかな緑色をした美しいきりぎりすで、日本人には「仏の馬」という珍しい名前で知られている。なるほど、この虫の頭の辺りが馬の頭部にいくらか似ていてーそれ故こんな幻想が生まれたのであろう。奇妙に人なつっこい虫で、手で捕まえてももがきもせず、大体がよく家の中へ入って来て、いかにもくつろいだ様子である。もう一つの虫も緑色のきりぎりすで、こちらは少し大きく、ずっと人になれない。歌い方の故に「ぎす」と呼ばれる。」
あと一週間もせずに、季節は処暑を迎える。昨日、気温は最高25℃で、一ヶ月以上続いた真夏日が、一たん途切れた。今日は30℃を超えるようだが、30℃を切る日が次第に増えていく。誰かも言っていたような気がするが、齢をとると、夏が去っていくことに、ふと哀感がかすめる。ひどい暑さであったが、もうこの夏はあと一年を待たないとやっては来ないのだ。
冬の空は時々刻々と変わっていく。青空に
朝日を受けた受けた雪山は、神々しい輝き
を見せる。それから一時間も経たないうち
に雲が出て、空も山の頂を隠していく。人
はこんな光景を見ながら何を思うのであろ
うか。それはその人が置かれている環境、
時代、年齢などの条件によって千差万別で
ある。
山々は白くなりつつまなかひに
生けるが如く冬ふかみけり 茂吉
昭和20年4月、斎藤茂吉は、空襲に明け暮
れる東京を逃れて、郷里の上山市金瓶に疎
開した。その8月には敗戦を迎え、その冬、
生家から見える山々の景色に深い感慨を覚
えている。山々は、敗戦によって傷ついた
茂吉へ、あたかも生きている人間の如くに
語りかけたであろう。白くなりつつ、とい
う言葉には、雪景色の美しさに加えて、白
髪となっていく、自らの老いの姿がある。
故郷の山の姿は、時とともに装いを変え、
厳としてそびえることで、人に色々なこと
を教えてくれる。
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妻の手術もようやく回復に向かい、退院の予定を話し合った。病院に通う道すがら、斎藤茂吉の生家のある金瓶を通るが、少し心にゆとりが生まれて立ち寄ってみた。蔵の白壁は近年塗りなおたものであろう。青空にその白さがひと際さえる。
ふるさとの蔵の白かべに鳴きそめし蝉も身に沁む晩夏のひかり 茂吉
この歌で詠まれた「晩夏のひかり」が新鮮である。茂吉の歌が好きなのは、こうした新しい感覚の言葉が随所に見られるからだ。茂吉自身、この歌を『作歌四十年』のなかで回顧している。
『白壁に鳴きそめし』の写生はなかなか好かった。蝉がいなずまのように飛んで来て、白い壁に止まったかとおもうと、直ぐに鳴きはじめる。盛夏をやや過ぎて、日光も落ちつきを示すころで、その趣きが何ともいえないのである。
茂吉がこの歌を詠んだのは、大正5年のことである。すでにこの歌が生まれてから100年以上を経ているが、その感覚の新鮮さは少しも衰えることはない。