東京小石川に「萩の舎」という歌塾を開いた歌人中島歌子は、明治36年1月30日60歳の生涯を閉じた。15歳の樋口なつ(一葉)が通った歌塾として名高いが、明治19年ころ、門下千人といわれる全盛を誇った。弟子のなかには梨元宮妃、鍋島、前田侯夫人などの高貴な人をはじめ、乙骨まき子、田辺龍子などの才媛も名を連ねていた。
中島歌子は江戸の小石川で水戸藩の御用宿を勤めた旅籠屋の娘であった。小さいときから利発で、和歌にも堪能であったのを、水戸藩の勤皇の士林忠右衛門に知られ、婚約する。だが、婚約は成ったものの、国事は急をつげ、忠右衛門は東奔西走の日々で結婚式も挙げられず、同棲もかなわず、夫の所在すら分らない有様であった。
折りしも、江戸に時ならぬ大雪が降った万延元年(1860)3月3日の朝、井伊大老が桜田門外で水戸浪士のために殺されたという噂が広がった。これを聞いた歌子は、もしや夫がその一味に加わっていないかと思い、饅頭笠合羽を身にまとい桜田門へと駆けつけた。血に染まった死体が雪のなかに、あちこちに倒れている。もしや夫がこの中に、との思いからいちいち抱き起こして探した夫の姿はなかった。
それでも見知った藩士が瀕死に呻いているのを見つけ、雪を握って口に含ませ静かに息を引き取らせて帰ってきた。その後歌子は、夫の行方を捜すため水戸へ下った。水戸の忠右衛門の淋しい留守宅で、妹の徳子と二人で留守居をした。そこへ、砲声とともに傷を負った士が転がりこんで来た。見れば、夢にまで見た夫忠右衛門の変わりはてた姿であった。
歌子は騒がず落着いて夫を天井裏に隠し、平静を装った。そのいつも通りの物静かな様子に追手は少しの疑いも抱かずに帰って行った。歌子はその後、夫の看護に身を挺したが甲斐なく、帰らぬ人となった。忠右衛門は天狗党に入り、反対党との間の闘争に敗れたのであった。歌子も徳子も、反対党に捕らえられ獄中の人となった。獄中にあっても、歌の道に勤しみ、徳子の歌の添削などをして日を過ごした。
その一年後、歌子は勤皇党の手に救われて帰京することができた。帰京してから、林姓は名乗らず、中島歌子として自立することになる。歌塾を取り仕切るかたわら、自らの手ひとつで旅館業を続けた。没するとき、10年来傍で仕えた下女に銀行預金百円を与えた。後に調べて見ると、歌子の財産はこの百円以外に何もなかったことが分った。実に清らかな一生であったと言うほかはない。
雪 消 山 色 静 (ゆききえて さんしょく しずかなり)
しらゆきの きえ にし 日より
おとわ山 みねの あらしも 聞ざり けり 中島 歌子