常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

睦月

2013年01月31日 | 日記


早いもので、一月も最後の日になった。寒い日を耐えたことへの褒美をもらうように、穏やかな陽気になった。日ざしはぽかぽかとして、青空に白雲が季節の変わり目を現すようだ。梅の鉢は花芽がピンクを増し、クンシランの花芽が急に伸びてきた。カトレアの花芽も順調である。

ところで一月の古名は、睦月である。ある俳諧師によれば、知人や親戚が集い合って、睦合うからむつびあう月だから、これを縮めて睦月だという解説がある。この伝でいけば、わが家など、知人はおろか親戚も訪れない正月であったから、むつばない月、縮めて睦月というところか。

明日から二月、古名では如月だ。こちらはまだまだ余寒が厳しく、衣をさらに重ねて着るところから、「衣更着」の意味だという解説がある。睦月といい、如月といい、古名に味がある。

はだかにはまだ衣更着のあらし哉 芭蕉

芭蕉の句は、増賀上人の故事による。上人は自ら着ていた小袖を乞食に与えた。それには、衣更着はまだ寒すぎる。節分の豆まきまであと3日、大寒も残り少ないが、古名からすればまだまだ冬服を脱ぐ季節は遠い。

山がひの杉冴え返る谺かな 芥川龍之介

冴え返るとは、せっかく暖かになったと思って喜んでいると、寒中のような寒さが戻ってくること言う。三寒四温をへて春がやってくる。
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中島歌子

2013年01月30日 | 


東京小石川に「萩の舎」という歌塾を開いた歌人中島歌子は、明治36年1月30日60歳の生涯を閉じた。15歳の樋口なつ(一葉)が通った歌塾として名高いが、明治19年ころ、門下千人といわれる全盛を誇った。弟子のなかには梨元宮妃、鍋島、前田侯夫人などの高貴な人をはじめ、乙骨まき子、田辺龍子などの才媛も名を連ねていた。

中島歌子は江戸の小石川で水戸藩の御用宿を勤めた旅籠屋の娘であった。小さいときから利発で、和歌にも堪能であったのを、水戸藩の勤皇の士林忠右衛門に知られ、婚約する。だが、婚約は成ったものの、国事は急をつげ、忠右衛門は東奔西走の日々で結婚式も挙げられず、同棲もかなわず、夫の所在すら分らない有様であった。

折りしも、江戸に時ならぬ大雪が降った万延元年(1860)3月3日の朝、井伊大老が桜田門外で水戸浪士のために殺されたという噂が広がった。これを聞いた歌子は、もしや夫がその一味に加わっていないかと思い、饅頭笠合羽を身にまとい桜田門へと駆けつけた。血に染まった死体が雪のなかに、あちこちに倒れている。もしや夫がこの中に、との思いからいちいち抱き起こして探した夫の姿はなかった。

それでも見知った藩士が瀕死に呻いているのを見つけ、雪を握って口に含ませ静かに息を引き取らせて帰ってきた。その後歌子は、夫の行方を捜すため水戸へ下った。水戸の忠右衛門の淋しい留守宅で、妹の徳子と二人で留守居をした。そこへ、砲声とともに傷を負った士が転がりこんで来た。見れば、夢にまで見た夫忠右衛門の変わりはてた姿であった。

歌子は騒がず落着いて夫を天井裏に隠し、平静を装った。そのいつも通りの物静かな様子に追手は少しの疑いも抱かずに帰って行った。歌子はその後、夫の看護に身を挺したが甲斐なく、帰らぬ人となった。忠右衛門は天狗党に入り、反対党との間の闘争に敗れたのであった。歌子も徳子も、反対党に捕らえられ獄中の人となった。獄中にあっても、歌の道に勤しみ、徳子の歌の添削などをして日を過ごした。

その一年後、歌子は勤皇党の手に救われて帰京することができた。帰京してから、林姓は名乗らず、中島歌子として自立することになる。歌塾を取り仕切るかたわら、自らの手ひとつで旅館業を続けた。没するとき、10年来傍で仕えた下女に銀行預金百円を与えた。後に調べて見ると、歌子の財産はこの百円以外に何もなかったことが分った。実に清らかな一生であったと言うほかはない。

雪 消 山 色 静 (ゆききえて さんしょく しずかなり)
しらゆきの きえ にし 日より
おとわ山 みねの あらしも 聞ざり けり  中島 歌子


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高村光太郎

2013年01月29日 | 日記


昭和20年10月、高村光太郎は岩手県花巻の郊外の小屋に移り住んだ。それは、大戦のとき書いた戦争賛美詩に対して自らの責任を認め、いわば自分を島流しの刑に処そうとしたのである。鉱山小屋を移築した粗末な掘立小屋には、冬になると雪が吹き込み、布団も顔も真白になった。

百姓仕事をして、食べるものは自分で栽培し、そして自ら調理した。野菜などはよく洗わなかったせいか、腹中に寄生した回虫が、口から出てくるというような悲惨な生活であった。そこに閉じこもって7年間、光太郎は責任の重さに自己を責め、極限の生活にじっと耐えてその小屋を動こうとしなかった。「暗愚小伝」という詩篇は、この懺悔の生活から生まれた。

 雪白く積めり

雪白く積めり。
雪林間の路をうづめて平らかなり。
ふめば膝を没して更にふかく
その雪うすら日をあびて燐光を発す。
燐光あおくひかりて不知火に似たり。
路を横ぎりて兎の足あと点々とつづき
松林の奥ほのかにけぶる。
十歩にして息をやすめ
二十歩にして雪中に座す。
風なきに雪蕭々と鳴って梢を渡り
万境人をして詩を吐かしむ。
早池峰はすでに雲際に結晶すれども
わが詩の稜角いまだ成らざるを如何せん。
わずかに杉の枯枝をひろひて
今夕の炉辺に一椀の雑炊を煖めんとす。
敗れたるもの卻て心平にして
燐光の如きもの霊魂にきらめきて美しきなり。
美しくしてつひにとらへ難きなり。

雪が光のかげんによって、青く光るのを見たことがある。白い筈の雪が、なぜ青いのか不思議に思った。高村光太郎の目には、その青さのなかに人の霊魂が見えた。改めて日本の戦争責任について考えたい。一握りの軍人が戦犯としてして処刑されたことで、大方の大政翼賛の体制は、戦後にも温存された。先日亡くなった大島渚の原点は、教室で昨日まで鬼畜米英と敵国をなじっていた教師が、敗戦後、欧米の民主主義こそが正義だと語った無責任な言動を見たことであったと言う。先の震災での原発事故でも明らかになったが、国の推進した政策の誤りに対して、誰も責任を取らない体制が連綿として続いている。




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寒の月

2013年01月28日 | 日記


寒の月しきりに雲をくぐりけり

久保田万太郎の名吟である。気温が低くくなって、月は冴えわたり、月に添える雲の動きも急である。秋の月は多くの人から見られてきたが、冬の月を見る人は多くない。それだけに、うっすらと山の端を照らし出す月光は、孤高というか気高い感じがする。

大寒に入ってから、テレビに流れる天気予報が妙に気になる。この季節には、道が凍てつき雪が降り積もることなど当たり前なのに、大雪にご注意を、とさも台風がくるときのように注意を促している。爆弾低気圧などあまり経験しない注意を要する異常気象と冬であれば当たり前な寒気の張り出しなどの現象が同列に扱われているような気がする。

新古今の歌人、藤原清輔も寒の月を詠んでいる。

冬枯の森の朽葉の霜の上に落ちたる月の影のさむけさ

冬枯、森、朽葉、霜と厳冬のイメージが幾重にも重ねられ、その上に落ちる月影は氷と化した月光の結晶であろう。

大寒の満月を眺めながら、俳人や歌人の自然を見る目に心打たれる。厳しい季節ではあるが、その季節を生きる人間のなかに流れる熱い血が感じられる。
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カトレア 2

2013年01月27日 | 日記


きのうとはうって変わって晴れ間が出る。山行きは結果論だが、今日の方がよかった。気温も日ざしにつれて3℃まで上がる。室内のカトレアの花芽が順調に伸びている。4つだったものが、ここにきて5つ目を持った。一つひとつの花芽も、前回撮影したものより2倍ほどになっている。

解説書をみると、カトレアは熱帯アメリカの山岳地帯で、高い樹木や岩上に着生する30種類の原種を交配させて数百種類の品種が生まれ、それを改良して美しい改良種が生まれたという。数多い洋ランのなかでも一番艶麗、豪華とある。育てて10年ほどになるが、まだ2回しか咲いていない。このように多くの花芽を持ったのは、肥料をいつもより多く施したためと、妻が語っている。あと数週間のうちに花が見られるのではないかと期待している。

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