常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

大晦日

2024年12月31日 | 日記
昨日の抜けるような青空から一転、氷雨のなかの大晦日になった。道路や散歩道に、雪のない新年になりそうだ。守歳という言葉がある。中国の風習だが、大晦日は寝ずに新年が来るのを待つ。これが守歳である。そういえば、自分も若い頃は除夜の鐘を聞きながら、新年が来るのを酒を飲みながら待っていたものだ。テレビから流れて来るのは、日本各地のお寺でつく除夜の鐘。その様子を語るアナウンサーも新年を待つおごそかな雰囲気を漂わせていた。

故歳 今宵尽き
新年 明日来る
愁心は斗柄に随い
東北に春の廻るを望む

玄宗皇帝の宰相張説の詩だ。詩の題名は「欽州守歳」。斗柄とは北斗七星のこと、東北の春とは左遷された欽州から見た東北、長安に新春が巡ってくることを願っている。唐詩の詩情は自己を辺境の地に置きそこから都を思いやることで増していく。

一方、江戸の新春はナズナ打ちの風習がある。正月七日は七草粥を食べて一家が息災であることを願うのだが、その前夜に一家ではまな板にナズナなどの若菜を載せて叩く。「七草なずな唐土の鳥が日本の土地へ渡らぬ先に」と囃子歌を歌ながら一家でトントンと囃したてた。

うち囃し馬も嶃よ薺の夜 白雄
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年忘れ

2024年12月29日 | 登山
今年の年忘れは回転寿司のまぐろ尽くし。マグロの解体位置を毎月やっている店なので久しぶりに小食の妻と堪能した。今年はこれで思い残すこともなしになったか。朝方、少し朝日が見えたが、その後雪が降り続く。正月のおせちと言ってもスーパーで蒲鉾を買ったり、雑煮の具を買う程度だが、一つずつ忘れて近所のスーパー通いが結構忙しい。

しぐるるやだらだら坂の黒びかり 才一
持ちかへて軽きてっちりの菜   信

年忘れ歌仙で、丸谷才一の発句に、大岡信がつけた句だ。今日、スーパーで雑煮の具材を下げてきたが、寒さにかじかんだ手は袋を持ちかえることになる。なるほど、詩人の付句は、年忘れを巧みに表現していると感じる。

今年の歳末は、なぜか良寛の歌が心にしみる。

水やくまむ薪や伐らむ菜やつまむ 
 朝の時雨の降らぬその間に 良寛

や・・・むの三句は、時雨のこないうちに終わらせなければならないという切迫した気持ちをあらわしている。歳末の買い物に急ぐ人々は、そんな気にかられているのであろうか。年末でなければ、総菜の買い物などいつでもいい。
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年の瀬

2024年12月28日 | 日記
昨日、ある人に聞いた。毎年、千両を買って玄関に飾って新年を迎えるのだが、その千両が大きく値上がりしたそうだ。同じ赤い実なら、ナンテンをスマホに収めてブログにアップする。年の瀬の風習ではある。一階の掲示板で、貼った紙を紙にメモしている知人がいた。聞けば、地域の公民館で行われるスマホ講座に参加したくて日程をメモしているという。考えてみると、それこそ持参したスマホで撮影すれば、メモは一瞬でできるはずだ。スマホの面倒なラインの登録の仕方を聞くよりも、スマホの便利な使い方を少しずつ身につけていくのが早道に思える。

スーパーに入ると、正月用品を買うためか、レジに行列ができ、店員がせわしなく商品の陳列に動き回っている。年の瀬はなぜか、街場に活気をもたらす。田山花袋は『田舎教師』で明治の町の様子を書き残している。
「町は賑やかであった。此処では注連飾りが町屋の軒毎に立てられて、通りの角には年の暮の市が立った。橙、注連、昆布、蝦などが行通う人々の眼に鮮やかに見える。どの店にも弓張提灯をつけて、魚屋には鮭、ごまめ、数の子、唐物屋には毛糸、シャツ、ズボン下などが山のように並べてある。」
昔から変わらない年の瀬の風景である。

歳晩の柱みがきて母います 古賀まり子
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一年回顧

2024年12月25日 | 日記
クリスマスイブの前日あたりから雪になり雪景色のクリスマスとなった。思い出すのはここへ引っ越した昭和55年のクリスマスイブの大雪である。一晩で1mという大雪は様々な交通障害を引き起こし、乗ったバスが15分で帰宅できるのが2時間もかかったのは今なお語り草だ。雪が降り続きまたあの大雪が頭をよぎったがさほどの積雪も見ず、駐車場も道路もしっかりアスファルトが見えている。車の危険も感じない年末になりそうだ。

年つまる思ひに堪えて何もせず 相馬遷子

グーグルのフォトに時おり過去の思い出が編集されて送られてくる。アルバムに貼って開かなくても、写しっぱなしの写真をテーマ分けてある。花や山登りの風景が主だったものだが、幻想的な風景として、朝焼けや夕焼け、山中の積雪などよくぞこんな写真を撮ったものと、我ながら感心する。なかでも山中の樹々が雪を被り、枝についた雪が朝日に輝いている景色は思わず見入ってしまう。グーグルフォトの進化は心強い味方だ。

この一年、何と言っても体力の衰えを感じることだ。2年前に平気で登った山が辛くなり、敬遠しておこうという気持ちが強くなっている。生活の面では、ハーブの栽培に喜びを見出し、アロマスプレーも毎朝の日課になった。スマートウオッチをグーグルに変え、睡眠や一日の運動もウォッチの管理に任せている。健康に目が向く日常が普通になった年である。情報のとり方もネットからの比重が高まった。その情報の真贋を見極める情報リテラシーを高めることに腐心している。取材を尽くしている新聞、雑誌、テレビなどの見るべきコンテンツにアンテナをはること。これが今後の目標になる。
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冬木立

2024年12月22日 | 日記
雪が来る前、樹々は葉を落とし冬の眠りにつく。こんな季節の樹の姿を見るのが好きだ。幹から枝が分かれ、その先の今年伸びたシュートがはっきりと見える。全体の樹形が葉などに隠されるのことなく目にとまる。近づいてみると春のための芽が固く包まれて冬越しの準備をしている。樹の生命力は冬にこそはっきりと確認できる。

冬木立影おく中のおのが影  桂 樟蹊子

今年の雪の降り方はすでに異常だ。例年であれば北海道の朱鞠内、青森の酸ヶ湯、山形の肘折が3大多雪ちだが、今冬、酸ヶ湯に2mを超える雪が降ったのに、まだ肘折の雪はニュースにならない。山形の平地に積雪が見られない。クリスマスがやってくるが、今年はホワイトクリスマスが見られるか、やや不安だ。雪の多い年は豊作だと言われるが、その理由は雪で土中の害虫が死ぬからと説く人もいる。

晩秋の青空に飛ぶ蜘蛛の糸を「雪迎え」と呼んだのは、歌人の結城哀草果だ。
「隣の東置賜郡には、降雪前に必ず「雪迎え」というものが空を飛ぶ。澄んで晴れた晩秋の空を飯豊山の方角から、白く細い、兎の毛のような、それよりも細い蜘蛛の糸のようなものが飛んで来て、蔵王山の方向に行ってしまふ。「雪迎え」はきまって西南の方角から東北に向かって行くのである」(結城哀草果)
自分の場合は、晩秋の寒い日中に、雪虫が突然現れて頭の上を飛ぶのを見ながら、今年も雪が来るなと感じたものだ。

散歩道に残っているは、ツバキと寒菊だ。木々の葉も落ちたなか、サザンカや寒菊が咲いているのを見ると、その生命力の強さに励まされる。漱石の句が思い出される。「寒菊や京の茶を売る夫婦もの」

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