常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

天才と睡眠

2023年06月30日 | 日記
日本の若き天才、二人の快進撃が止まらない。一人は野球メジャーリーグの大谷翔平。この6月、ホームラン14本、計29号でダービーを独走中。投げては7勝とトップケラスの成績だ。もう一人は将棋の藤井聡太。タイトル戦7冠をとり、最後の8完へ挑戦まであと1勝に迫った。なぜこんな人並みはずれた活躍ができるのか。二人にある共通点がある。大谷は大リーグでほぼ休みなしに出場を続け、ストレスと疲労回復に重視しているのは睡眠。8時間~10時間の睡眠をとるという。藤井もタイトル戦の前日、ストレスなしに十分な睡眠をとるという。十分な睡眠が疲労を回復し、勝負のときの集中力を高めることができるようだ。藤井も対局時に、昨夜眠れましたか、という問いに眠れなかったとい答えを聞いたことがない。

我々の時代の受験勉強。4当5落が合言葉であった。睡眠が4時間の人は合格、5時間では落第。睡眠の削って勉強することが奨励された。だが、記憶を固定するのは睡眠中であることが分かってきている。夜遅くまでいくら頭に詰め込んでも、睡眠がなければすぐに忘れる。その上睡眠不足は想像力や独創性を奪うと言われる。睡眠を削って書いた論文は凡庸で退屈なものになるといのが定説だ。ナポレオンが4時間しか眠らなかったという話がある。これも、当時睡眠を削って物事に当たるのが美徳とされていた時代の話だ。国王として、夜も寝ずに働いているイメージを作りたかったようだ。何度か重大な局面で
睡眠不足のため判断を誤ったという指摘もある。

ギリシャ神話に夜が生んだ双子の兄弟がいる。ヒュピノス、眠りの神である。ケシの茎を手に持ち、この茎を振って露をふりまき、人々を眠らせた。人々に健康と安らぎをもたらす神であった。もう一人の子はタナトス、死の神であった。ヒュピノスの対極の存在であった。人を憎み、死へと導いた。眠りは一見、死と似ている。だがこの連続した時間に、身体の疲れを癒し、病気を追い払う。同じように見えて死は、人を別世界へ誘う。夜は人を惑わせる怪しい時間なのだ。
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河口慧海

2023年06月26日 | 
河口慧海の『チベット旅行記』を読んでいる。1886年、堺に生まれた慧海は、小学6年で学校を止め、家業である桶樽製造を手伝った。向学心に富み、家業のかたわら夜学や塾にも通った。15歳の時、『釈迦伝』を読んで発心、禁酒、禁肉食、不婬を誓い、26歳からは二食生活に入り、生涯続け通した。以後の学業では、井上円了創設の哲学館で3年間勉学を続け、25歳で得度を受け、慧海仁広の名をもらった。慧海がチベットに行く決心を固めたのは、1893年ころのことであり、その動機は仏教の原典を得たいという求道のためであった。漢籍による仏典に疑問をもち、まやかしでない真正なものに触れたいということであった。

自分がこの存在に気付かされたのは、川喜田二郎の『鳥葬の国』であったように思う。1958年、川喜田二郎を団長とする西北ネパール学術探検隊が、慧海が訪れたネパールのトルボに行っているが、慧海から半世紀経ってのことであった。ここからネパールとチベットの国境を越える苦難の行程が、『チベット旅行記』に記されている。慧海の表現によれば飢餓乾渇の難、渡河瀕死の難、雪峰凍死の難、重荷負戴の難、漠野独行の難、身疲足疵の難。実に水のない砂漠で渇し、身の切られるような冷たい川を幾度も渡り、雪の峰では凍死の危機に会い、身も心もボロボロになった、そうして着いたのがマナサルワ湖である。本には線描きのスケッチが載っている。

ネット時代には、この湖の写真が配信されている。その写真を見ながら、慧海の描写を読むことができるのは幸せである。
「その景色の素晴らしさは実に今眼に見るがごとく豪壮雄大にして清浄霊妙の有様が湖辺に現れて居る。(中略)湖中の水は澄み返って空の碧々たる色と相映じ全く浄玻璃のごとき光を放っている。西北の隅に当ってはマウント・カイラスの霊峰が毅然として碧空に聳え、その周囲には小さな雪峰が幾つも重なり重なって取り巻いている。」
慧海が目にした光景は、海抜4500mの地にあって、曼荼羅をなし、仏教の聖地そのもであった。これを眼にしただけで、ここまでの行脚の疲れも吹き飛び、清々とし、自分を忘れたような境涯に達することができた。
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西條八十

2023年06月24日 | 
西條八十は詩人である。この人の名が多くの人に親しまれるようになったのは、歌謡曲の作詞者としてかもしれない。「東京行進曲」「誰か故郷を思わざる」「越後獅子の歌」「この世の花」など、戦前、戦後にかけてのヒット曲の作詞者であった。早稲田大学仏文科を卒業し、フランスの詩の研究、詩人として活動をしていたとき、関東大震災が起こった。家を焼け出せて、都民が路頭に迷ったとき、一人の少年が吹くハーモニカが、人々の心を揺さぶった。この
光景を目にした八十は、大衆のための詞を書こうと思ったのが、歌謡曲の作詞を書き始めた動機らしい。

Bingチャットに聞いてみた。西條八十の詩で一番有名な作品は、という問いの答えは二つあった。「ぼくの帽子」と「トミノの地獄」であった。「ぼくの帽子」は「母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?」書き出しで始まる。碓氷峠から霧積へ。夏休みに母に連れられて、山道を歩きながら、風に飛ばされた麦わら帽子。少年の心情がにじみ出る懐かしい詩だ。かって森村誠一の作品で映画になった『人間の証明』のモチーフになっている。今年、最後の登山に谷川岳を選んでいるが、登りなら詩に思いを馳せることもできる。

もう一つ「トミノの地獄」は、詩の全体が見られる。

とみの ようこそ おいでませ
我が家の 小広間に 座りなさい
お茶でも いれましょ
ほらほら あんまり ごたごたしないで
障子をあけて おくれやす 
月がさしこむ 夜ですから
とみの おんなじむすめが 昔、
この広間で 首をはねられたということです
それから、この広間には 首のない死骸が
出没するようになったとか
ああ、たいへん、たいへん、怖ろしい話です

八十の詩には、こんな怪談めいた、怖い地獄のシーンもでてくる。そんな怖い童謡に「桃太郎と桃次郎」がある。川上から流てくる桃太郎はおじいさんに拾われ、成長して鬼退治でかける。しかし、一緒に流れてきた桃次郎は誰にも拾われない。童謡の詞には「川から海へ どんぶらこ 兄さんと別れて ただひとり どこで大きくなったやら 誰も知らない桃次郎」

西條八十はペンネームではなく本命である。親が子の将来に九(苦)を抜いて八十とした。フランスの詩を学ぶかたわら、八十は探偵小説、怪奇小説を読むことを趣味にしていた。少しだけ名をあげると、ドイル、ヴァン・ダイン、フィルポッツ、クリスティ、ルブラン、岡本綺堂など多士済々だ。
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夏至

2023年06月21日 | 日記

今日、24節季の夏至。昼間が年間で一番長い日である。立夏と立秋の中間点で、太陽は一番高い線を通る。影は一番短い。里山ソムリエの黒田さんの本を開いたら、夕焼けが空を染める魔法の時間という記述があった。夕焼けもきれいだが、ピンク色に空を染める朝焼けの空も美しい。日がでたあとの空には、羊雲が広がり、季節の移ろいを物語っている。この季節の風習にチマキ造りがある。新しく出た笹の葉が大きくなって、チマキを巻くのにちょうど良くなる。夏至になる前、もうお二人の知人から、出来上がったチマキを頂いた。付け合わせのきな粉をまぶして、夏の味覚を味わった。

眠たさのあまりて夏至の夜と昼 正在

桑の実が黒く熟れた。子どものころ、口のまわりを汚して貪ったことを思い出す。英語ではマリーベリーと言う。こちらでスグリという果実は、グズべりーと呼んでいた。道端に生る小さな果実だ。畑にはサクランボも実っている。ウメの実が黄色く熟する季節でもある。草木が勢いよく伸び、実をつけると、食べ物が出回って、食べ物の少ない季節を通りこして豊穣の季節を迎える。時間が過ぎていくほど、その一時を大事にしたい。ある達人の暮らし方。ベットに入る前に手帳を開き、今日の予定でし残したことはないか、チェックする。最後の書き込むのは、「今日もよい一日であった」と書き込むそうだ。いやなことがあっても、そう書けばよい一日になる。
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不忘山

2023年06月18日 | 登山

梅雨の晴れ間、花の不忘山に登る。登山口はエコーラインの刈田口。この駐車場に着くまで、深い霧がこめていた。標高で1500m、ここまで来ると青空が見えている。昨日までの雨が嘘のようだ。登山道の低い部分には、水たまりと泥濘があるものの、あれほどの雨でも、あがると緑が一段と濃くなる。高山の花の色は、一段と美しい。思えば登山口から不忘までは、7.5㌔ほどの距離がある。屏風岳付近まで登った引き返すことがほとんど。ここから踏破したことはない。果たしで年老いてからこのコースを完登できるか、大いに疑問であった。

早朝6時、登山口の駐車場はほぼ満車である。我々のチームの2台を置くと、もうとめることができないようだ。登山道に入って見えてくるのは、無数のアオモリトドマツの屍だ。枯れて何年が経過しただろうか。林床の雑木が、枯死したトドマツの半分以上に達している。その姿は緑のなかで異様な姿を見せている。目を登山道の脇にやると、チングルマの群落がみごとな花を咲かせている。登山年齢残りが少なくなるほど、花たちの華麗さは増していく。鳥海山や北アルプスで、もう自力で歩けないような人たちが、家族は仲間の手を借りて登る姿を見た。「なぜそこまでして」という疑念を感じたが、年々目に美しく映えてくる花の姿や雪景色の美しさに浸ると、その人たちの気持ちが分かるような気がする。
以前は軽い歩きであった芝草平まで。前山と杉ヶ岳のふたつのピークを越える。花に見とれてここを過ぎて屏風岳。ここを過ぎると稜線歩きだ。足の筋肉にはだんだんと疲労が蓄積する。それにしても登山者の数は多い。新潟、宮城、福島など近県の人たちと、登山道でひっきりなしに会う。遅い自分の脚を追い越していくチームが10は越えた。女性が多く登っている。本日の参加者7名。うち情勢3名。

南屏風を過ぎて、滑り安い危険個所を過ぎると、いよいよ不忘山が見えて来る。ここは30分ほどの登り。足の疲労を考慮して、自分一人で鞍部の草むらで休んで、チームの下山を待つことにした。1時間ほど待って、登山口へと引き返す。南屏風頂上の岩陰で昼食。



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