常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

日の出

2014年04月29日 | 日記


カメラを手に、日の出に立ち会う。カメラに黒い影だが、東の山はすでに明るい。ねぐらを離れたカラスが一羽、また一羽。新聞配達のバイクが通り過ぎる。一瞬、日の出前の一番美しい光が見え始めた。山の頂の張り付くようにしている雲に沿って光の帯が現れた。4月29日午前5時11分。この一分後、太陽がすっと出てきた。

時は春、
日は朝(あした)、
朝は七時、
片岡に露みちて、
揚雲雀なのりいで、
蝸牛枝に這ひ、
神、空に知ろしめす。
すべて世はこともなし。

上田敏の訳したブラウニングの「春のあした」。いま、こんなのどかな春の朝は失われてしまったが、日の出に立ち会うと、この詩のフレーズが胸にしみる。



ベランダに目をやると、朝の光を受けたクンシランが、花びらをいっぱいに開いた。マクロで狙ってピントを合わせる。


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桃の花

2014年04月29日 | 農作業


連休の前後は畑仕事が忙しい。土を耕して肥料を施すのが終わり、野菜の種を蒔いた。雨が降らず畑kの乾燥が激しいので、水遣りをしながらの種まきである。冬を越したコリアンダーの脇に山東菜、バジル、小松菜、ほうれん草、シュンギク、フダンソウの種を蒔いた。土を砕いて細かくし、蒔いた畝に籾殻を敷く。これは水遣りのの湿りを長持ちさせるためだ。

朝日に照らされた畑を眺めると、桃とリンゴの花が枝を交えるようにして咲いている。カメラを持って花を撮影に行くと、鶯が鳴いている。こんなのどかな畑の風景だが、これこそが本当の春の風景である。海棠の花が混じるとさらに華やかになる。



ユートピアを古代の中国では桃源郷といった。ある漁師が舟で川を遡った。奥地へ進みあたりの光景も見慣れずどこに自分がいるのか分からなくなった。突然、驚くような光景に出会う。そこにあるのは桃だけの林。いまや花は満開で、川の両岸に延々と続いている。中国では、桃は魔よけでめでたい木だ。この桃の林が尽きるあたりに、洞穴があり、潜って入るとそこは別世界である。漁師はこの村で、もてなしを受ける。鶏を殺して料理をつくり、酒を振舞われた。

現実世界を離れ、そこの住むものだけで安逸を貪る。朝廷の王や貴族に背を向け、人知れず住む場所、それが桃源郷であった。


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翁草

2014年04月28日 | 斉藤茂吉


斉藤茂吉がこよなく愛した翁草。この花が光善寺に庭に植えられているので、この季節になると身近に見ることができる。白く長い絹毛に覆われた花茎に、暗紅紫色の花をつける。派手さのない地味な花で、その色は一見不気味さえ感じさせる。花が終わって種子が、翁の銀髪のような羽毛で覆われる。茂吉は、チングルマのような翁草の姿を愛でたのかも知れない。

翁草野の枯色はしりぞかず 橋本多佳子

茂吉は翁草の花の色を、「かなしきいろの紅や」と歌に詠んだ。幼いころ遊んだ郷里の山道に翁草が群生していたの忘れかねていた。東京に空襲が激しくなって、茂吉は金瓶に疎開する。さらに歌の門人の好意で、大石田に疎開して大戦を迎える。大石田で茂吉は病床の人となった。茂吉の晩年の姿は、翁草こそが相応しいような気がする。疎開を終えて東京へ帰っていくとき、茂吉は金瓶にたちより、翁草に別れを惜しんだ。

われ世をも去らむ頃にし白頭翁いづらの野べに移りにほはむ 斉藤 茂吉



久しぶりの雨に喜んで、花びらが少しほころんだ。

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葉桜

2014年04月27日 | 日記


木々の生命に立ち止ることはない。満開の花を散らせた桜は、そのあとに濃い緑の葉を伸ばして来る。あれほど花のもとを歩いていた人の姿は絶え、熊蜂がひとつ空中にホバリングしながら飛んでいた。気温23℃、もう初夏といっていい。桜の木の下は、静寂を取り戻したようである。葉が大きくなって、木陰をつくるのももうすぐだ。

葉桜となりし幾日の髭を恥づ 谷野 予志

ラジオで桜の塩漬けの話をしていた。こちらは八重桜である。戸建てに住んでいたころ、この八重桜が欲しくて庭に植えた。植木市で小ぶりな木を求めたが、5年ほど経つうちに太い木に成長した。花をもいで塩漬けにして桜湯を楽しんだが、いつか桜湯にも飽きてしまった。それでも、この花を見るたびに当時を思い出す。皐月の鉢をたくさん買って咲かせ、庭には桜とツツジが咲いた。



昨年のブログには、丁度この時期に、義母を車に乗せて花見に行った記事があった。一年しか経たないのに、もう義母を自家用車で連れて行くのは、医者に診てもらうときのみである。今年はデイサービスのバスに乗って、ヘルパーさんの介護つきで、やっと行くことができる。


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新平家物語

2014年04月26日 | 読書


晴耕雨読とはいえ、ここのところの晴天続きで読書の時間がない。それでも、吉川英治の『新平家物語』をやく二ヶ月かけて読み通した。清盛の青年時代から、一族が南海の壇ノ浦に滅びる一大歴史ロマンである。菊版500頁5巻の大部で、睡眠から覚める夜間の時間を費やした。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れるもの久からず、ただ春の夜の夢の如し。猛き人もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」

学校で学んだ古典の「平家物語」の書き出しである。この予言は、平家の滅亡を暗示している。都落ちした平家一門が、関門海峡近くの壇ノ浦に軍船を浮かべ、押し寄せる源氏の大将義経と最後の決戦をするのは、寿永4年(1185)3月24日のことである。このとき一門は幼い安徳天皇と母建礼門院を船中に仮の御所を設けて同行した。

安徳帝はまだ聞き分けのある年になっていない。いやがる帝を船に乗せるため、付き添いの侍が、「船中には盥いっぱいの蟹がいます」と嘘をついて乗船させた。もちろん船中に蟹などいるはずもない。無き騒ぐ帝の機嫌を取るために、建礼門院は筆をとって蟹の絵を描いた。杉本健吉氏の挿絵はその時の様子を描いた。その日の夕刻、安徳帝は祖母に抱かれ海の藻屑と消えた。あとを追った建礼門院は、源氏方によって引き上げられ、一命を留めた。


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