常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

大晦日

2017年12月31日 | 日記


降り続いた雪が上がり、静かな大晦日になった。空気が澄んで周りの山々もはっきりと見える。真っ白く雪を被った月山が、山形の街並みを見下ろしている。街も何事もなかったように、年が暮れて行くのを待っている。表の道路には、年越しの買い物か、三々五々車が行きかっている。

寒の月しきりに雲をくぐりけり 久保田万太郎



このブログも今日が書き納め。本当にたくさんの方からご訪問いただきありがとうございました。新しい年も、一日一日を大切に、書き継いでいきます。皆さまよいお年をお迎えください。
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回顧2017

2017年12月30日 | 日記


今年も残すところ2日となった。思えば病気をすることもなく、無事に一年を過ごせたことをよしとしなければならない。一番の安堵は、服薬している成人病で血圧、血糖値、痛風などの数値が大きく改善したことだ。こまめに身体を動かすことは、一日の充実感につながっていく。北海道と静岡の旅で、生き残った兄弟、その家族、高校時代の旧友に会うことができたのは、今年の一番の思い出である。その後ラインで彼らとつながり、折々の出来事を知らせ合えるようなこともうれしい出来事であった。

山登りも、念願の北アルプス・白馬三山を踏破することができた。山の会のスケジュールも、雨で中止が多かったが、大きな事故もなくこなすことができた。老化による体力の衰えをカバーしながら、自分のなかの可能性を見出すのも、来年へかけての楽しみである。一つ一つの山登りを大事にして、挑戦のための準備。そして、もう来ることができないことを念頭に、楽しみを尽すことに目標をおきたい。

野菜作りでは、やや時間に追われて、畑へ行く時間が減ってしまった。草取りに追われ、野菜の成長の手助けが不十分だったような気がする。体力が続く限り、自分の手で作った野菜を味わいたい。時間の使い方をもっと工夫する必要がある。いままで、敬遠していた野菜も新しく加えることで、畑のお隣さんに褒められるような野菜作りを目指したい。

読書では、カズオ・イシグロというノーベル賞作家の小説を読めたのは幸せであった。本棚に並んでいる、かって読んだ本の再読の楽しさを知った。あらためて、忘れるということの構造を知らされた思いがする。思えば、映画から遠ざかった一年でもあった。このブログの読者であるchihiroさんから、「人生フルーツ」という映画を勧められた。こちらの映画館で上映されればぜひ見たい映画だ。ブログやSNSで自分を広げていくこともこれから追求していきたい。

身辺や年暮れんとす些事大事 松本たかし
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タキギとり

2017年12月29日 | 日記


昔話には、「おじいさんは山へ芝刈に、おばあさんは川へ洗濯に」という枕がある。かつての日本の生活は、燃料のほとんどを近くの山から取るタキギに頼っていた。正月の行事に、「キキリゾメ」や「コリゾメ」というのがあって、山に入って形ばかりの木を伐り出してくることが行われていた。宮本常一の書いたものを見ると、昭和10年ころ伐られている山林のうちその6割が燃料になっていたという。

正月の行事で九州の山中では「ワカギムカエ」が行われいた。5間も6間もある長い杉の木を、家の人数分伐り出して、その梢の葉ばかり残したものを家の前に立て並べる風習があった。山に入る前には、山の神にお祈りをするのが仕来りであった。明治以前の古い時代は、タキギ山はその麓の集落の共有で、山中にタキギを積むタナを作っていた。農閑期になると人々は一間ごとに柱を立て、その間に高さ一間になるほど木を積んで行く。これが一タナである。一年ほどこのタナを山中に置くと木は枯れて来る。それを雪の時期にソリに乗せて運びだして来た。一つの集落で、5タナも6タナも持っていたという。

どこの家にも四角にイロリガ切られ、その上でタキギを燃やした。そこで暖をとるのが主たる目的だが、五徳を使うことで湯を沸かすことでき、簡単な煮物もできた。アクのなかにサツマイモや栗を入れて焼くのも、イロリの楽しみであった。家族がイロリノ囲んで集まり、楽しい話がはずんだであろう。

まだ雪が降り始めたばかりのころ、今年の登山納めに白鷹山に登った。山頂に山小屋があり、小屋の中央にイロリがあった。イロリの真上の屋根には、煙だしの窓が切ってあり、下がった紐で開け閉めができるようになっていた。燃料は古い屋根を葺いた板や乾燥した木の枝が置いたあった。火を焚いて暖を取り、イロリのまわりで弁当を食べた。ただ、小屋中に煙が充満したのには閉口した。屋根の煙出しを開け、窓を開けたがそれでも、煙が目に入った。しかし、イロリを囲むとホッとした気分に浸れる。昔の日本文化を味わうには、こんな山上の小屋まで足を運ばなければならない。
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雪の日

2017年12月28日 | 日記


樋口一葉の短編に『雪の日』というのがある。吹雪いて前も見えないような雪が、小説の主人公にある決断を促す。後から後から止むこともなく降ってくる雪が、決心を思い悩んでいるものの背中を押す。雪には、人間の行動範囲を小さくする一方で、困難な事態へ立ち向かう力を貸す役割があるような気もする。

「吹く風絶へたれど寒さ骨にしみて、引入るばかり物心ぼそく不図ながむる空に白きものちらちら、さてこそ雪に成りぬるなれ、(中略)いとど降る雪用捨なく綿をなげて、時の間に隠れける庭も籬も、我が肘かけ窓細く開らけば一目に見ゆる裏の耕地の、田もかくれぬ畑もかくれぬ、日毎に眺むる彼の森も空と同一の色に成りぬ、あゝ師の君はと是や抑々まよひなりけり。」

珠は名家のお嬢さんであったが、早くに父母を亡くし、嫁いでいた伯母が家に戻って養育していた。珠の教育には力を入れ、学問の師をつけ、手習いにも通わせた。15歳の冬、村に噂が流れる。師と教え子の恋の風説である。驚いた伯母は、珠に師のもとへ勉強に行くことを禁じ、半年ばかり経った冬、まさに雪の日である。伯母の留守に、雪のなかを前後無分別に家を出て、師の下宿に駆け込んだ。この出来事は、既に師の妻となり、いまやつれない夫と暮しながら、その雪の日を回想するという作りになっている。

一葉にこの小説を書かせるように背を押したのも、容赦なく吹きつける風雪であった。一葉は、小説の師ととして半井桃水の教えを受けていた。師のもとを訪ねた日、激しい雪になった。師は今日は家に電報を打ってここに泊まりなさいと勧める。桃水31歳、一葉19歳の時である。母が許さないと断ると、桃水は人力車を呼んでくれた。車の上で風説を避けるように、頭から頭巾を被り目だけ出して、『雪の日』という小説の構想を胸に描きながら家路をめざした。
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命なりけり

2017年12月27日 | 日記


ある年になって、その心情にぴったりとかなう歌がある。後期高齢者の冬に読む西行法師の歌は、そんな歌の代表と言っていいであろう。この冬を越えて、あわよくば北アルプスや大朝日の山道を歩ければと願う身には、こころに響く歌でもある。

年たけて又越ゆべしと思ひきや命なりけりさよの中山 西行法師

「命なりけり」という歌語は、新古今の技巧によって生みだされたものではない。ある評者の言葉をかりれば、土のなから大根を引き抜いて放り出したような、ぶっきら棒に置かれている。この東海道53次の難所を年を経て越えようとは、命があればこそと詠嘆している。やはり、この歌語は命数が終りに近づいている身にしか出ないものように見える。

小夜の中山とは現在の掛川市、江戸の東海道53次では金谷から日坂へ向かう峠道で、舟止で有名な島田で大井川を渡り、高台に登って行く。この峠からは、渡ってきた大井川の景色が開け、夜泣き石という大きな石があった。

伝説によれば、この峠を旅していた妊婦が山賊に襲われて殺された。その腹から生まれた赤ん坊を観音様が、飴で育てたというものだ。いまも子育て飴がこの地の名物として売られている。掛川、藤枝と言えば、姪が嫁いだ地でもあり、折に触れて名産のカツオや鰻を送ってくれるので懐かしい地でもある。

西行法師は生涯に2度この中山を越えている。一度目は出家して間もない26歳のときで、東国に趣き、それから43年後の69歳の年(1186年)が二度目の中山越えであった。この時の旅の目的は、東大寺大仏殿復旧のための砂金勧進で、奥州の藤原秀衡のもとを訪ねた。西行な秀衡とは、親戚縁者としてのつながりがあった。二度目に中山峠を越えて、西行は「命なりけり」の歌語を吐いた。


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