ある年になって、その心情にぴったりとかなう歌がある。後期高齢者の冬に読む西行法師の歌は、そんな歌の代表と言っていいであろう。この冬を越えて、あわよくば北アルプスや大朝日の山道を歩ければと願う身には、こころに響く歌でもある。
年たけて又越ゆべしと思ひきや命なりけりさよの中山 西行法師
「命なりけり」という歌語は、新古今の技巧によって生みだされたものではない。ある評者の言葉をかりれば、土のなから大根を引き抜いて放り出したような、ぶっきら棒に置かれている。この東海道53次の難所を年を経て越えようとは、命があればこそと詠嘆している。やはり、この歌語は命数が終りに近づいている身にしか出ないものように見える。
小夜の中山とは現在の掛川市、江戸の東海道53次では金谷から日坂へ向かう峠道で、舟止で有名な島田で大井川を渡り、高台に登って行く。この峠からは、渡ってきた大井川の景色が開け、夜泣き石という大きな石があった。
伝説によれば、この峠を旅していた妊婦が山賊に襲われて殺された。その腹から生まれた赤ん坊を観音様が、飴で育てたというものだ。いまも子育て飴がこの地の名物として売られている。掛川、藤枝と言えば、姪が嫁いだ地でもあり、折に触れて名産のカツオや鰻を送ってくれるので懐かしい地でもある。
西行法師は生涯に2度この中山を越えている。一度目は出家して間もない26歳のときで、東国に趣き、それから43年後の69歳の年(1186年)が二度目の中山越えであった。この時の旅の目的は、東大寺大仏殿復旧のための砂金勧進で、奥州の藤原秀衡のもとを訪ねた。西行な秀衡とは、親戚縁者としてのつながりがあった。二度目に中山峠を越えて、西行は「命なりけり」の歌語を吐いた。