田部重治は英文学者で法政大学で教鞭をとるかたわら、山を愛した大正時代を代表する登山家でもある。その著『わが山旅五十年』は、不朽の名著として多くの登山家によって愛読された。田部は山に登ることで、美しいと思う自分の内面を見続けた。競って高い山を極めるのではなく、あくまでも山の渓谷や森林の美しさにロマンを求め続けた。大正6年7月、田部は朝日岳を越えて白馬岳に登っている。その時の喜びを、この本の中で書いている。
「(朝日岳の)頂上についてあたりを見廻すと、この山は思いがけない美しい高原をあちこちにもち、眺望もすばらしい。北に黒々とした、面積の大きい山が見えるのは地図に現れた長栂山であろう。越後方面を見やると姫川の支流大所川が竜のように深くもぐりもぐって麓にたっしている。(中略)ここから見る白馬岳はひどく立派で、暮れて行く空に残雪の多い峰を聳やかしている姿は、何にたとえようもない。」
田部が白馬をみてからちょうど100年が経っている。今日では、白馬岳は北アルプスでも人気の高い山で、多くの登山客でにぎわう。明日、私も6名のチームで、田部が見た山をめざす。田部はこの朝日岳のハイマツやシラカバの林のなかで、子連れの熊に遭遇している。案内の岩次郎が「熊だ、子どもを連れていると」と叫ぶ。一行は危ないので身じろぎもせずに、しゃがんでいたが、熊の方で人間がいたのに驚いて樹林の中へ逃げ込んだ、と書き記している。すばらしい景観とそして安全な山行をひたすらに祈念する。