霜月を迎えた。秋晴れと雨が周期的に交互にやってきて、冬を迎える。この秋は、山行きが多く、秋の色が堪能できた。秋は古来淋しい季節として和歌にも詠まれてきたが、松や杉など冬もなお緑を保つものに目が向けられてきた。『百人一首』に入集している寂蓮法師に
村雨の露もまだひぬ真木の葉に
霧立ちのぼる秋の夕暮れ
がある。真木は、杉や檜などの常緑樹を指した美称である。真木を一字にして槙となった。槙は別の常緑樹でイヌマキの木の名称でもある。この歌は京都の西山あたりの山中に見られる杉木立を詠んだものであろう。広葉樹のように紅葉した後に落葉しない、いつまでも緑を保つことを愛でたものである。ムラ雨は時雨とみてよい。時雨が通りぬけて行った秋の夕暮れ、杉の木の葉の露がまだ乾かぬうちに、今度は白い霧が木立のある山あいを登っていく光景である。
寂蓮法師は藤原定長といい、藤原定家の従兄にあたる。定家の父俊成に育てられていたが、この家に後継ぎの定家が生まれたために出家したと言われている。新古今集には、「秋の夕暮れ」を詠んだ「三夕の歌」が有名である。定家、西行、寂蓮が詠んだものでいずれも紅葉の華やかさなどはない。
さびしさはその色としもなかりけり
槙立つ山の秋の夕暮れ 寂蓮
心なき身にもあわれは知られれけり
鴫たつ沢の秋の夕暮れ 西行
見わたせば花も紅葉もなかりけり
浦の苫屋の秋の夕暮れ 定家