夕日を見ながら、ことばについて考えてみることがある。以前ネットに綴っていた私のブログは「ことばの海」というタイトルであった。このブログはパソコンを替えた時に消失してしまった。朝日新聞が始めた一面のコラム「折々のことば」に人気が集まっているらしい。寺山修司『ポケットに名言を』(角川文庫)の書き出しはこんな風になっている。
「言葉を友人に持ちたいと思うことがある。
それは、旅路の途中でじぶんがたった一人だと言うことにきづいたときにである。たしかに
言葉の肩をたたくことはできないし、言葉と握手することもできない。だが、言葉にも言い
ようのない、旧友のなつかしさがあるものである。」
心にしみることばに出会っても、自分がなぜそのことばに親和性を感じるのか、人に説明することは容易ではない。
漢詩のことばに昭和の人間の心を打つものが多い。「国破れて山河あり、城春にして草木深し」
この詩も昭和の人の心を打った。敗戦という現実と向き合ったとき、この詩のことばが人の心を打ったのである。長安が戦乱によって破壊されつくされながら、春がきて山や川に草木が繁茂する。自然と人事の対照は、焼け野が原となった終戦の東京と変わりはなかった。千年以上も前の他国の街が、ことばの力によって重ね合わされる。
花に嵐のたとえもあるさ
さよならだけが人生だ
太宰治は井伏鱒二の詩を、酒を飲むごとの口走ったらしい。太宰はこの詩を口にしながら、自分の人生にさよならすることを考えていた。