昭和26年。斎藤茂吉は古稀を迎えていた。大京町に長男茂太の斎藤神経クリニックが新築され、茂吉もここに住んでいた。新宿御苑へ行ったり、杖をついて家の中を歩いたりしたが、病気のため老衰が進行した。やがて家で移動するにしても家人の助けなしには叶わなかった。そんな茂吉のもとに、文化勲章受章の知らせがあった。
新聞社の取材があった。写真を撮るために、妻の輝子が結城の羽織を着せたが、茂吉は気に入らずこれを着せるのも一苦労であった。記者が文化勲章を貰う気持ちを聞いたが、「内定だから」といって質問には答えなかった。授与式には、とみに近くなっていた小水を理由に断るつもりであった。しかし間際になって、自分で行くと言いだした。妻の輝子と長男の茂太が控室まで同行し、その先は入江侍従長に支えられて進んだ。
老衰や痴呆症の進行していくなかでも、茂吉は作歌を止めなかった。弟子の佐藤佐太郎に「これからは意味が通ろうが通るまいがかまわない。でたらめな歌を作るよ」と語ったりしている。
新宿の大京町といふとほりわが足よわり住みつかむとす 茂吉
斎藤茂吉の最後の歌集は「つきかげ」である。大石田に疎開している間に詠んだ歌は「白き山」に収められ、「つきかげに」に比べて秀作も多い。しかし最後の歌集には天衣無縫な味わいのある歌が収められている。
朦朧としたる意識を辛うじてたもちながらにわれ暁に臥す
茫々としたるこころの中にゐてゆくへも知らぬ遠のこがらし
辛うじて机のまへにすわれども有りとしも無しこのうつしみは
口述した歌を歌人や弟子に筆記させ、あるときは自分で書いて枕元に置いたりした。妻が見つけた紙には次のような歌が認めてあった。
いつしかも日がしづみゆきうつせみのわれもおのづからきわまるらしも 茂吉