常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

夏越の祓

2015年06月30日 | 詩吟


6月も30日ともなれば、今年も半分が過ぎたことになる。京都の上賀茂神社では夏越の祓が行われる。年末の年越しの祓の夏版というのか、暑い夏を無病息災で乗り切る神事である。神社のなかを流れる小川に名前を書いた紙の人形(ひとがた)を流し、穢れを祓う行事だ。

風そよぐならの小川の夕暮は 御祓(みそぎ)ぞ夏のしるしなりけり 藤原 家隆

夏越を祓を詠んだ藤原家隆の歌である。ならの小川は川岸に繁る楢の木と、上賀茂神社を流れるならの小川と懸けている。神社のある片岡山の麓を流れるせせらぎは、本殿の方から流れて来る御物忌川は橋殿のあたりで西から流れて来る御手洗川が合流する。ここで神官が祝詞をあげて祓の神事を行ったが、その内容は時代によって変容している。家隆がこの夏の夕暮に見た禊の神事がどのようなものであったか、浅学にして詳らかにしない。

藤原家隆は後鳥羽院の和歌所に、慈円、定家らととも寄人となり鎌倉時代の歌の世界で、藤原定家と並び称された歌人である。詠んだ歌は6万首とも言われ、今に残されているものは、その十分の一にも及ばない。その歌風は後鳥羽院や藤原俊成、定家からも認められ、自然を観照した優れたものが多い。ちなみにこの歌は定家の選歌になる小倉百人一首にも入り、多くの人に親しまれている。日本詩吟学院では27年度の優秀吟コンクールの課題吟の吟題にこの歌を選らんだ。私はこの吟題を選び、一年間練習していくことにした。
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野薊

2015年06月29日 | 


近所に住むsさんから、春先に薊の茎をいただいた。山薊の太くなった茎である。ワラビなどと一緒だったが、フキを炒め煮にすると同じようにするんだよ、と教えられた。食べてみると、やや固く繊維質だが、灰汁が山菜らしいほろ苦さでおいしいと思った。その薊が道端で花をつけていた。

薊摘んで花の巧を眼に見入る 篠原 温亭

デジカメに撮ると、摘むまでもなくその花の細部が見える。山菜の入門書を見ると、若い茎は皮を剥くと柔らかく食べられる、という解説があった。炒め煮だけではなく、天ぷらにするとよいとも書いてある。そう言えば、北アルプスの山小屋で、薊の天ぷらを食べたのを思いだした。タラノメやコシアブラなど、灰汁が強いものは天ぷらにすると苦味が軽減される。

毎年シシウドを採りに山に行ったが、今年は行っていない。葉山の下見で少しばかり採ってきたシシウドが今年食べた最初で最後である。ネマガリダケも、山行の途中にわずかばかり末折りしてきたものでみそ汁を作っただけだ。年齢を重ねると、山菜採りも次第に縁遠くなっていくような気がする。

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コスモス

2015年06月28日 | 日記


早咲きのコスモスが咲き始めた。秋にこの花を見るので、なにか季節感がづれてしまったような感覚にとらわれる。黄花のコスモスは6月になると見かけるので珍しくはないが、桜のようなピンクの花は秋を代表する花と言ってもいい。秋桜をコスモスにあてる。

コスモスの家また浮かぶ雨の中 松本たかし

コスモスは雨に似合う花ではない。風が吹いて向けたカメラの焦点から逃げるように吹き乱れる様子がむしろコスモスの風情を表わしている。梅雨になると、庭の雑草を取るのも忙しい。近所の家の庭には、鍬を持って熱心に草をとる主婦の姿が目につく。嫁ぐ娘を持ったその家の母は複雑な気持ちでコスモスの花を見ることだろう。
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入梅

2015年06月27日 | 日記


昨日の夜半から雨。雨がほとんどなかっただけに待ち遠しかった。こんなことを書くと、記録的な大雨に見舞われている九州の人々に気が引けるが、一方でこのひと月で半年分以上の雨が降るかと思えば、北日本は旱魃を思わせる少雨である。何とか日本中がほどよい雨にならないものだろうか。今日計画していた障子ヶ岳への山行は中止、久しぶりに土曜日の投稿となる。今朝雨上がりに、光禅寺の庭園を散策する。雨に濡れた紫陽花は、しっとりと本来の色を醸している。

言とはぬ木すらあぢさゐ諸弟らが 練りのむらとにあざむかえけり 大伴 家持

万葉集に見える紫陽花の歌2首のうちのもう一首である。この歌は妻である坂上大嬢に贈った歌で、大嬢の愛を伝えてきた使者の言葉を信じてばかを見たと戯れている。紫陽花のように次々と色を変えて信用できないものがあるのに、まして練りあげたご託宣と諸弟の言葉を指摘するのは十分に二人の関係がこの戯れを笑い流せるという自信の裏返しでもある。

紫陽花の学名はotaksaだそうだ。この命名者は、鎖国中の日本にやってきたオランダの医師シーボルトであった。長崎に滞在中に知り合い、愛し合ったお滝さんの名前を取ったと言われている。シーボルトは日本滞在中に、日本の地理や植生、天文などの研究をし、帰国後、大著『日本植物誌』を刊行した。




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紫陽花

2015年06月26日 | 万葉集


今日の11時、気象庁は東北南部の梅雨入りを発表した。最も遅い梅雨入りである。遅い梅雨入りは、今後大雨が懸念されるというアナウンスがある。近所を散策して目につくのは、やはり紫陽花がきれいに咲いていることだ。これから雨になれば、紫陽花の美しさはさらに引き立てられる。紫陽花は日本に古来からあるもので、万葉集にも登場している。万葉仮名では味狭藍または
安治佐為と表記される。

あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にを いませ我が背子みつつ偲ばむ 万葉集4448

この歌は、天平勝宝7年(775)の5月11日、丹比国人宅で左大臣橘諸兄が、国人の寿ぎの歌への返しとして詠まれたものである。紫陽花が集まって咲く様を、人生の栄えに例えたものである。紫陽花が彩りを変えながら咲くように、あなたも元気にしていてください。紫陽花の花をみるたびに、あなたを偲んでいますよ。国人は諸兄に取り立てられて、右大弁に任じられた。

橘諸兄は遣唐使だった吉備真備、僧玄をブレーンとして登用、聖武天皇に仕え権勢をふるった。しかし、聖武天皇が病でその座を孝謙天皇に譲り、藤原仲麻呂が天皇の寵を得て台頭してくると、酒席での不敬を讒訴されて、左大臣の職を辞した。あたかも、この紫陽花の歌が詠まれた年である。職を辞して翌年には、諸兄は死去した。このことから、歌のなかで、八つ代、つまり
幾年もいませと言ったのは、深い意味がある。諸兄没後、子の奈良麻呂は乱を起こして破れて獄死、連座した国人は遠島となった。

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