酒井抱一
2014年11月29日 | 人
谷文晁と並び称させる江戸の画家、酒井抱一が世を去ったのは、文政11年(1829)11月29日のことである。播洲姫路城主酒井忠以の弟に生まれたが、武家の窮屈さを嫌って隠退し、病気と称して西本願寺の弟子となり、やがて得度して、好きな道に励んだ。画は尾形光琳を慕い、その手法を極める。書は其角に学び、俳句も嗜んだ。
酒井家と光琳には少なからず縁がある。元禄年間に光琳が罪を得て、京都を追放されて江戸に下ったが、酒井家は光琳に手厚い保護の手を差し伸べる。当主の忠挙は、光琳の画を愛好し、その才能を惜しんだのだ。光琳の家族のために二十人扶持を与えた。そのため、光琳は足しげく酒井家を訪れ、画を書き残した。酒井家にはたくさんの光琳の画幅が残されていた。抱一が光琳の手法を研究するためには、格好の環境にあったのである。
抱一は酒を嗜まなかった。しかし、遊女の弟子を多く持ち、遊女屋に出入りすることも多かった。あるとき、弟子であり、吉原の遊女であった雛鶴から願われたことがある。「お上人様の姿絵を描いていただきたいのです。それを掛け物にして秘蔵しておれば、会いたいと思ったときは、その絵でお姿を拝むことができ、どのような末路となるやも知れぬ身の上ですので、生涯の宝にいたしたいのです」この願いを聞いて、抱一は「よし描いてやろう」と答えた。
当時の肖像画には、絵描きの家に伝えられた決まりがあった。その身分によって、絵をかき分けるのである。したがって、この決まりに従うと、実物とはかけ離れてしまうことがままあった。抱一は考える。「雛鶴は、絵姿をしのぶ草としたいのだから、旧来の手法にとらわれることはない」そこで、鏡を持ち出し、己の姿を写す鏡を見ながら筆をとった。かつ照らし、かく写し、苦心惨憺のすえ、ようやく肖像画は出来上がった。
その出栄えはすばらしかった。常々雛鶴が見ているあの瀟洒で、奥ゆかしい抱一上人の姿がそのまま画のなかに立ち現れた。雛菊がその後どのような運命を辿ったかは知られていない。だが、この肖像画は明治の時代になって、骨董屋の手にするところとなり、抱一派の画家柏子守一の所有することとなった。しかし、後年守一の家が火災にあい、この画も消失した。
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