未熟なカメラマン さてものひとりごと

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カキを買いに室津に行ってきました!

2013-12-15 09:02:38 | 買い物

室津港・カキの直売所 無料でカキの試食ができます。

先週の土曜日、贈答用の牡蠣を求めて、兵庫県の室津港に行ってきました。山陽自動車道、笠岡ICから龍野西ICまで約一時間半です。いつも思うことですが県内・岡山から東が何と遠いことか、しかし岡山ICは、ほぼ県の中央に位置していますから、あたりまえといえばあたりまえなのですが、逆に東から来る人も岡山ICから西が何と遠いことか、と思っていることでしょう。

龍野西を降りると、道の駅「みつ」を目指します。
途中にある海鮮バーベキューの店「堀市」で、少し早い海鮮類の網焼きとも思いましたが、時間的に早すぎたようで、オープンはしていましたがまだ準備中のようでした。ということで、今回は止むを得ずパスです。
国道250線(はりまシーサイドロード)は、海岸に沿って走っており眺めも抜群。カーブした道を進むとすぐに、道の駅「みつ」に到着です。

相変わらず満車状態の駐車場でしたが、なんとか停めることができました。この地域の特産品がいろいろ並んでいます。ここは屋上にも出られるようになっていて、展望台からの眺めは特に素晴らしいです。水鳥が羽を休めている姿が見えました。

このあと、室津港に向かいました。昨年、この時季、岡山県内の牡蠣の生産地・日生(ひなせ:B1グランプリ カキオコで有名)に買いに行きましたが、どういうわけかまだ販売されておらず、もう少し足を延ばして室津まで行ったのでした。国道からループ橋を降りるあたりで室津港を一望することができます。橋を降りると、すぐに牡蠣を販売する水産会社の店舗が数軒並んでいます。店先では、どこも「カキ試食・無料」と書かれた目立つ看板があり、中国人実習生と思われる女の人が、一生懸命、牡蠣を焼いています。そしてそれぞれに数人の客が並んで順番を待っています。またハンガーに掛けられたサヨリやウルメなどの魚が天日干しで売られており、なかなか風情があります。

折角なので、私も3つのお店に並んで、おいしくいただきました。結局、牡蠣は昨年と同じく吉田水産で購入しました。ひとつの店舗の奥を覗くと、台の上に牡蠣が山盛りに盛られ、その周りを取り囲むように椅子に座って作業している人の姿がありました。室津はその昔、「室津千軒」といわれた程の賑わいを見せ、朝鮮通信使も大船団を組み寄港する国際外交都市として隆盛を極めましたが、今はその町の通りも寂しく、人の姿はほとんどありません。

今日は、夕方、来客があるので、あまり時間の余裕はなかったのですが、折角ここまで来たからにはと、日生でおいしい食事をして帰ろうと思いました。国道250線をひたすら走ると、途中にも牡蠣の直売店がいくつもありました。まさに牡蠣ロードと云った感じです。

そして日生に到着。ネットで調べていた「秀吉」という店を探しました。ナビが古く、店の場所が特定できませんでした。(店の場所が変わった?)ということで行ったり来たりとしましたが、何とかお店に辿り着くことができました。やはり最近、新築したのでしょうか。店内はとてもきれいでした。ミニ懐石を注文しましたが、随分なボリューム、食べきれるかな、と思いましたが、何とか完食。やはりこのあたりでは有名店なのでしょうか、次から次へとお客がやってきます。

おいしい食事の後、五味の市へ行ってみました。広い駐車場ですが、ほぼ満車でした。こちらでは日生の漁師がその日に水揚げされた新鮮な魚介類を販売しています。おばちゃんたちの威勢のいい声に、ついつい耳を傾け買ってしまいます。今年は、すでに牡蠣がいくつものブースで販売されていました。プリッとしてなかなかおいしそうです。
駐車場を挟んで道路の反対側にある食事処の店先で、「あなご」が売られ、行列が出来ていたので、ついつい買ってしまいました。これにて本日の予定は終了です。すぐに高速に乗り日生をあとにしました。井原には午後3時半頃帰着。ちょっとしたドライブとお買いもの、なかなかいいコースだと思いますよ。

牡蠣:今年も大好評でした。あなご:脂がのっていてほんとうにおいしかったですよ。いずれもおすすめです。



日生・五味の市
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ロシアの子ども達、800人を助けた船長の物語その2

2013-12-12 22:05:39 | 歴史

茅原基治著 手記「露西亜小児団輸送記」表紙

米国赤十字社からの要請により、勝田汽船㈱所有の貨物船・陽明丸がその任にあたることになりました。社長は愛媛県松山市出身の勝田銀次郎でした。とにかく人情に厚い人で、数萬円という多額の改造費を寄付しています。貨物船は、子どもたちが航海できるように客船仕様に改造されました。すなわち中甲板全部を客室にし、上層甲板下に病室、浴場等を設け、また客室の喚起を行うため、要所に八個の電気通風機を備え付けるなどちょっとした汽船には見られない程の立派な設備を施したのでした。

米国赤十字社は当初、インド洋からスエズ運河を経由してフランスへ送り届ける予定でした。しかし、時折しも夏の盛りで、子どもたちの保健上、インド洋の航海を避けたいという医官の注意と、米本国赤十字社員の要望から、東回りすなわち太平洋を横断し、サンフランシスコ港(桑港)に入り南航してパナマ運河を通過し、再び北上してニューヨーク(紐育)に寄港し、それから一路、大西洋を東航するルートに決定したのでした。

陽明丸は、煙突に赤十字、舷側に「AMERIKAN RED CROSS」と大書し、メインマストに、米国国旗と赤十字旗を連掲し、船尾には大日章旗を翻していました。神戸を出帆し、門司を経由して、1920年7月9日、ウラジオストックに到着。そして、給養品、食料品等を積み込み、7月13日の午後、一行960名が乗り込んで出発、室蘭に向かいました。

(内訳は次の通りです。)
ロシア男児 428名
ロシア女児 351名
ロシア婦人 87名
ドイツ兵士 77名(東部戦線でロシア軍に捕らえられていて脱出し、赤十字社収容)
米国赤十字社幹部 16名(隊長はアレン中佐)
米国Y.M.C.A派遣員1名
小児は10歳前後が最も多く、平均は12・3歳でした。
そして60余名の乗組員を合わせて、1000名以上の大所帯となりました。

7月15日室蘭の港に入港。肉類、野菜等を積み込み、上陸を願う一行のため、当局へ手続きしたところ、米人以外は拒否されました。しかし米国赤十字が保護監督している一行ということで、粘り強く交渉した結果、船長がその責任を持つということで了解を得たのでした。一行は小学校に案内され、地元の児童と交歓し楽しく過ごしています。

航行中は、万が一のための短艇操練、英語や数学などの授業も行われました。そして7月末日、サンフランシスコ(桑港)に到着。桟橋を埋め尽くすほどの歓迎を受けたのでした。燃料や食料を積み込む間、各種の歓迎会に参加し、市中見物などをして8月5日に帰船しています。その後、船は南下し、8月16日に太平洋の東端パナマ港に到着しています。その後、北上してニューヨーク(紐育)に到着し、ここで2週間停泊しました。この間、船長は義援金を募り、領事館を訪ね交渉事に奔走したようです。ところが、このニューヨーク滞在中、小児団から次のような突然な要求が出たのでした。

「フランスは、ロシアと交戦状態なので、我々をフランスに送ることは中止して、ペトログラードへ12時間以内で帰着できるバルチック海の一港へ送って欲しい、できなければ、このまま米国に置いてもらいたい」というものでした。米国赤十字社は当初断固として拒否しましたが、最終的には要求をのみ、陽明丸はフィンランドに向かうことになりました。こうして9月14日、陽明丸はニューヨーク(紐育)を出帆しました。ウラジオストックを出てちょうど2カ月を経過していました。

そして9月27日フランスの西北にあるブレスト港に到着後、翌日、キール運河に向けて出帆しました。バルチック海からフィンランド港一帯は、おびただしい数の機雷が放置されている海域でした。水先案内人を頼りに無事通過し10月10日にヘルシングフォース港に到着。在泊3日の後、ついに最終目的地のコイビスト港に上陸しました。ここでドイツ兵を残し、全員が下船しました。3ヶ月もの間、同じ暑さ寒さを味わい、寝食をともにした子どもたちと、乗組員たちは「さようなら、さようなら」と繰り返し、最後の別れをしました。

その後、コペンハーゲンでドイツ兵を降ろした後、臨時施設の一切を取り外して元の貨物船に復帰し、メインマストには、勝田汽船の社旗が翻ったのでした。
思えば90日あまりの航海中、大きな災害に会うこともなく、船内でも大きなもめごともなく、無事に送り届けられたということは、「一行の幹部、陽明丸乗組員及び関係者一同の熱意と、赤十字旗に垂れ給うた神仏のご加護によるもの」と手記を締めくくっています。

その後、陽明丸は、宮城県金華山沖で、濃霧のため暗礁に乗り上げて沈没したとのことです。
次に、人々の記憶から忘れられていた、陽明丸と茅原基治船長が、どうして再び取り上げられることになったのか、その経緯を見てみたいと思います。(つづく)


ロシアの子どもたち、800人を助けた船長の物語 その1
ロシアの子どもたち、800人を助けた船長の物語 その3
ロシアの子どもたち、800人を助けた船長の物語 その4
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ロシアの子どもたち800人を助けた日本人船長の物語

2013-12-09 23:35:16 | 歴史

金光図書館(こんこうとしょかん) 金光教本部総合庁舎ビル内 HPはこちら

数日前の地元紙(山陽新聞)に、ロシア革命直後のシベリアで難民となった800人の少年少女を、米国赤十字社の要請により、日本人船長が、陽明丸という貨物船で太平洋、大西洋を横断し3ヶ月近く掛かってロシア近くのフィンランドの港に送り届けたという話が掲載されていました。その船長というのが岡山県笠岡市出身の茅原基治(かやはらもとじ)という人で、その船で助けられた少年少女の孫に当たる人が、命の恩人の子孫に、是非ともお礼をいいたいと、一昨年日本を訪れ、今回2度目の来日を果たしたというものです。

いろいろ調べてみると、この女性が最初に日本を訪れたとき、関わりのある地域の各新聞やローカルTVで紹介されていたようです。こういう人情味あふれる話には特別に心を動かされる私ですが、このことに関してはまったく知りませんでした。新聞記事によりますと、その日本人船長・茅原基治さんの手記が、金光図書館(岡山県浅口市)に残されているとあり、それなら是非ということで、昨日、思い立って金光図書館まで行ってきました。所用時間は幸いにも20分程度の距離です。この金光図書館、初めての訪問ですが、想像以上に立派な建物で驚きました。

受付で、「井原市の住民ですが、利用はできますか」と尋ねると「もちろんです」と快い返事が返ってきました。登録が済み、このような本を探していると要件を言うと、この件ですねと、すぐに新聞や関連資料の切り抜きのあるB4大のファイルを、「どうぞ!」と見せていただきました。その間にご希望の「露西亜小児輸送記」という書籍を探してみます、ということでした。それにしても、スタッフの方の対応ぶりには頭がさがります。パソコンの検索で探していただきましたが、ヒットする書籍は無く、いろいろ他の職員の方に聞いていただいていたようでした。

しばらくすると、上席の方でしょうか、「お探しのものは、これでしょうか?」と、ネットのブログで見た、赤十字の印が入った陽明丸のイラストが表紙に載っている冊子を持ってきていただきました。これは手記なので、蔵書のリストには入っていないとのことでしたが、内容は、なんと図書館のホームページで、見ることができる。とのことでした。
この方は特に詳しく、茅原基治さんは金光中学の出身で、初代校長の佐藤範雄氏の教えにより、特別に赤十字の精神を持つ慈悲深い人であったことや、直系の関係者が数年前までこの図書館に勤めていたことなど、貴重な話をいろいろ教えてくださいました。話の途中で急用が入り、あまり邪魔もできないので、お礼を言って図書館をあとにしました。

このロシアの難民を母国に送り届けることができた背景には、いくつかの要因がありました。それらを分析してみたいと思いますが、まず時代の背景とその輸送の実態はどのようなものだったのか、この件がどうして取り上げられるようになったのかを、まず整理してみようと思いました。
私がこのことに興味を持った理由のひとつに、江戸時代の末期、石巻の若宮丸の船乗り達が遭難してロシア領に流され、自分たちの意思とは関係なく、日本人として初めて世界一周を体験した歴史的事実がありました。世界一周という言葉にふとそのことを思い出したからです。

(時代の背景)
1918年、ロシア革命前夜の混乱期、首都ペトログラード(現在のサンクトぺテルブルグ)は飢餓と疫病が蔓延し、前年にソビエト政権が樹立され、英仏米日を巻き込んだ戦争と内戦が同時に起きていました。そこでペトログラードの親たちは、子供たちだけをウラル地方に列車で避難させました。しかし戦火はウラルにも迫り、首都に戻るのも危険この上ない。そこで救いの手を差し伸べたのが、極東ウタジオストックにあった米国赤十字社でした。
米国赤十字社は、ウラジオストックで受けいれて約1年間、面倒を見ましたが、革命が起きたロシアからの撤退を余儀なくされました。そして子供たちを海路で帰すことに決めたのでした。そしてこの仕事を引き受けたのが茅原基治船長の陽明丸だったのです。
(つづく)


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