友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

窪島誠一郎さんの記事

2007年12月22日 20時25分53秒 | Weblog
 今日は午前中から、先日に意気投合した友人たちと麺の試食会を行った。「もったいない」ものがたくさん捨てられている。いらないという人からもらってきて、いる人に渡すことできれば、人の役に立つのではないかという話にまで発展し、NPOをつくろうということになった。うどんやそばを作る機械が廃棄されるというので、これをいただいてきた。そこでその製麺機がどんなものなのか、何ができるか、試してみようということになったのだ。

 友人のアイディアマンは「来年の夏祭りに、これでうどんを作って出してみよう」と言い、製麺機をもらってきた友人は「ゴマ入りのうどんはできないか、試してみたい」と言う。こういうことには夢中になってしまう二人だ。実戦部隊となるご婦人方の協力がなければ実現不可能なのだから、まずご婦人たちに試食してもらい賛同いただかないといけないのに、そんなことはどうにでもなると考えてしまうところも二人は似ている。

 初めはこの二人が組んで、製麺機からうどんを作っていたが、後半は製麺機の主の奥さんが代わって作業を受け持った。先ほどよりもコンビネーションがいい。「なんだかんだと言ってもやはり夫婦は息が合ってるね」と冷やかされ、「慣れてるだけだわね」と反論していた。「夫婦喧嘩になりそうな時はうどん作りをするといいかも知れんね」とまで言われ、「うどん作りで喧嘩になるわね」と言うんで、大笑いになった。

 この夫婦が恋愛結婚なのか見合い結婚なのかは知らないが、夫婦は長くなるといつの間にか似てくるという。今朝の中日新聞の『家族のこと話そう』欄には「信濃デッサン館」の館主、窪島誠一郎さんが載っていた。以前、友人家族と旅行した時に、この「信濃デッサン館」に立ち寄ったが、この時私たちに入場券を渡してくれた人が窪島さんだった。窪島さんが作家の水上勉の子供だということは既に知っていたが、だからといって声をかけられものではないので、素通りしてしまったが、目と目は合った。

 窪島さんの記事を読んで、自分の家庭が欲しかったことも、和気あいあいの家庭から逃れたかったことも、両方とも真実だと思った。人は一人では生きられないし、一人でいて幸せなどありえない。女の人の気持ちまではわからないが、男たちの結婚は小椋佳の歌詞にあるように「あなたの甘い胸元へ きっとたどりつくだろう」というものではないだろうか。愛して、少なくとも家庭を持つことに満足と期待を抱いて結婚し、恋愛が日常の中に埋没してしまうと、「愛することはこういうものではないはずだ」とまた感じるのだろう。和気あいあいの家庭を作ろうとしながら、そこにまた違和感を覚えるやっかいなものだ。

 ある人はそれを道徳的に非難するけれど、どうしても人は愛なしには生きられないから、相反する二つの愛を求めることになる。私の友だちは、愛したがために12年間「友だち以上恋人未満」を維持してきた。そんな馬鹿なことがあるはずがないと言う人はいるが、彼を知る私は間違いなくそのとおりだったと言える。その彼が彼女と別れようとしたのは、やはり彼女を愛しているからだと私は思う。そういう選択をする男だからだ。私が「信濃デッサン館」で始めて窪島さんを見て、窪島さんが父親の水上勉を探し当てるまでを書いた『父への手紙』を読んだ時、この中学以来の友人を思い出した。似た境遇だと思ったからだ。

 高校時代の友だちにもそういう「もらわれ子」が二人いた。中学以来の友だちも含めて、なんとなく甘えん坊なところがよく似ているなと思った。男たちは皆、女の人の「甘い胸元」にたどりつきたい願望を抱いているのだろう。中学以来の友だちが愛するがゆえに別れを選択したけれども、そんなに清く正しくしなくたっていいじゃーないか、死ぬまで正直に「甘い胸元」を求めていきなよ、そんなふうに言ってやりたいが、これはいけないことなのだろうか。
コメント
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