映画『恋空』を観てきた。中学1年の孫娘が何度も「観てきて!」と言っていたが、60過ぎの年寄りが観に行くにはちょっと抵抗があった。それが今朝、わざわざ上映時間まで調べて、「この時間なら行けるでしょう。絶対に行ってきて!」と念を押された。そこまで言うのに行かないわけにはいかないと思い、出かけた。
『恋空』がケイタイ小説の映画化されたものだということくらいの知識はあった。ケイタイ小説がとても若い人たちの間で流行っていることも知っている。いつだったか、孫娘と書店に出かけた時、「これがケイタイ小説だよ」と教えてもらった。彼女のためにその中の1冊を買ってあげたが、それが『恋空』だったように思う。どの小説もこのブログと同じ横書きで、しかも1行の文字数が少ないから、あっという間に読める手軽さがあった。小説の中身は恋愛で、「ちょっとエロいよ」と言うとおりだった。
『恋空』の主人公の美嘉は高校1年生で、ふとしたことから同じ歳のヒロと恋に落ちる。確かに私も高校生の時、好きな女の子はいた。この小説のような出会いではなかったが、それなりの喜怒哀楽はもちろんあった。そんなことはどうでもよいことだが、美嘉とヒロは恋に落ち、子どももできる。そして別れがやってくる。美嘉にはヒロとは違う穏やかで優しくて思いやりと思慮に富んだ新しい恋人ができる。なのに、運命は再び美嘉とヒロを結びつける。
そして最後にはヒロはガンでこの世を去る。小説としては誠に稚拙で安易な終わり方である。フアンのほとんどが10代なのだからそれでもよいのかもしれないが、編集者は大人なのだろうから、もう少し深みが欲しいと思うのはないものねだりということか。それにしても、10代の女の子たちはこの話を純愛と思っているのだろうか。理想の恋と受け止めているのだろうか。
孫娘に聞くと「みんな映画を観て泣いてたよ」と言う。「感動的だった」とも付け加えた。「そうか、あなたが一番感動した場面はどこ?」と聞くと、「ヒロが死にたくない。もっと生きたいと言ったところ」と教えてくれた。私は情けないことに、馬鹿馬鹿しい映画だなと思いながら、いろんなところで涙を流していた。馬鹿馬鹿しいストリーではあったが、浅田次郎の小説のように、涙を流させるように見せ場を設けていた。
でも、長いこと人生をやってきた私には、ヒロは人としては軽すぎて自分の娘を嫁にはやれないし、美嘉も愛することがどういうことか、わかっていないような気がしてならなかった。人生を生きることと人を愛することとには、重なっている部分とそうではない部分があるように思う。でも、そんなことは若い彼らにはわからないし、私だって実は何もわかっていないかもしれない。
少なくとも私は、ヒロのようには生きてこなかった。ヒロのような優しさというか弱さを否定してきた。その分、素直ではなかったのかもしれないが、小説にならなかった人の人生はそんなものだろうと思っている。映画の話で1時間を越えて、孫娘と話ができただけでも幸せというものだろう。
『恋空』がケイタイ小説の映画化されたものだということくらいの知識はあった。ケイタイ小説がとても若い人たちの間で流行っていることも知っている。いつだったか、孫娘と書店に出かけた時、「これがケイタイ小説だよ」と教えてもらった。彼女のためにその中の1冊を買ってあげたが、それが『恋空』だったように思う。どの小説もこのブログと同じ横書きで、しかも1行の文字数が少ないから、あっという間に読める手軽さがあった。小説の中身は恋愛で、「ちょっとエロいよ」と言うとおりだった。
『恋空』の主人公の美嘉は高校1年生で、ふとしたことから同じ歳のヒロと恋に落ちる。確かに私も高校生の時、好きな女の子はいた。この小説のような出会いではなかったが、それなりの喜怒哀楽はもちろんあった。そんなことはどうでもよいことだが、美嘉とヒロは恋に落ち、子どももできる。そして別れがやってくる。美嘉にはヒロとは違う穏やかで優しくて思いやりと思慮に富んだ新しい恋人ができる。なのに、運命は再び美嘉とヒロを結びつける。
そして最後にはヒロはガンでこの世を去る。小説としては誠に稚拙で安易な終わり方である。フアンのほとんどが10代なのだからそれでもよいのかもしれないが、編集者は大人なのだろうから、もう少し深みが欲しいと思うのはないものねだりということか。それにしても、10代の女の子たちはこの話を純愛と思っているのだろうか。理想の恋と受け止めているのだろうか。
孫娘に聞くと「みんな映画を観て泣いてたよ」と言う。「感動的だった」とも付け加えた。「そうか、あなたが一番感動した場面はどこ?」と聞くと、「ヒロが死にたくない。もっと生きたいと言ったところ」と教えてくれた。私は情けないことに、馬鹿馬鹿しい映画だなと思いながら、いろんなところで涙を流していた。馬鹿馬鹿しいストリーではあったが、浅田次郎の小説のように、涙を流させるように見せ場を設けていた。
でも、長いこと人生をやってきた私には、ヒロは人としては軽すぎて自分の娘を嫁にはやれないし、美嘉も愛することがどういうことか、わかっていないような気がしてならなかった。人生を生きることと人を愛することとには、重なっている部分とそうではない部分があるように思う。でも、そんなことは若い彼らにはわからないし、私だって実は何もわかっていないかもしれない。
少なくとも私は、ヒロのようには生きてこなかった。ヒロのような優しさというか弱さを否定してきた。その分、素直ではなかったのかもしれないが、小説にならなかった人の人生はそんなものだろうと思っている。映画の話で1時間を越えて、孫娘と話ができただけでも幸せというものだろう。