友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

学生は元気な方がいいけれど

2009年05月19日 18時38分54秒 | Weblog
 私の住むマンションに芸術大学の留学生が寝泊りしている部屋がある。今回は3人の白人女子大生が入っている。女子学生の時は不特定の人が大勢出入りするし、男子学生の時も多くの女子学生が部屋に入り込んでいた。私の学生時代を思い出してみても、夜遅くまで酒を飲みながら議論したりしていたことがよくあったから、一般市民の生活とはかなり違っていた。それは学生の特権みたいなもので、時間に制約されることのない青春を大いに楽しめばよいと思う。

 ところが、不幸なことにその部屋は上の階にある。外国人であるから生活習慣も価値観も違うだろうと多少のことには目を瞑ってきた。ところが夜中の12時まではうるさくても仕方ないと耐えてられても、午前3時や4時までもドンチャンやられたり、ベランダで花火を打ち上げられたり、飲み過ぎてベランダから階下に向かってゲロゲロやられたり、余りにも非常識なことをされたのでは我慢にも限界がある。

 外国人学生を目の敵にしたことはなく、家に招いて交流にも努めてきた。おそらくコンクリート建築のしっかりした建物だから、多少騒いでもそんなに音がうるさいとは思っていないのだろうが、音の遮断はかなり悪い。何年か前、クリスマスの時だったと思うけれど、たくさんの人が集まってパーティーが開かれていた。ステレオから流される大音響は階下の部屋では地獄の雄たけびである。午前4時になっても鳴り止まず、もう限界だと怒鳴り込んでいった。大学の学長にも会い、マンションを学生のために使うことはやめて欲しいと申し入れたが、その当初は静かになってもまた新しく学生がやってくるから同じことである。

 生活のパターンの違う学生を一般市民が暮らすマンションで生活させる大学の感性が私には理解できない。昔から多くの大学には学生寮が独立してあるが、それは学生たちが自由に議論したりワイワイ騒いだり出来るようにとの大人の配慮だろう。学生たちがおとなしい羊であってはならない。一匹狼であろうと、群れた狼であろうと、世の中に向かって吠える存在であって欲しい。

 1970年代は世界中で学生たちが吠えまくっていた。大学解体や自己否定や造反有理や‥、今から思えば随分と頭でっかちな連中であった。私はすでに社会人となっていたけれど、学生たちのでたらめでむちゃくちゃな主張に共感するところは多かった。人はなぜ生きるのか、ゴーギャンの作品の題名にあるように、わたしたちはどこから来てどこへ行くのか、根本的な部分での詰問であった。そして実際には社会という大きな波の中に飲み込まれ、問うたことさえも忘れた生活をしてきた。

 それでよいと思う。結局は皆自分に出来ることしか出来ない。精一杯に生きるしかない。そうしていくうちに人類はどこかへたどり着くだろう。たとえ、たどり着かないままに終わるとしても、そこが到達点であることは間違いない。
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