今朝、何気なくつけたテレビはW0WOWで、松たか子主演の演劇『sisters』を放映していた。見始めたところが余りにもショッキングな場面だったので、結局それから30分余り、幕が閉じるまで見てしまった。新聞で見ると午前5時40分からの放映になっている。随分長い舞台であるのに、その終わりがけを見ただけなので、どんなストリーなのか、どんな役柄なのか、よくはわかっていない。
けれども、凄まじい舞台であった。松たか子という役者は歌舞伎役者の子どもで、テレビ・映画や演劇に出ていることは知っていても、その演技力がどれほどのものなのか、注意して見たことはなかった。私の中では古い女優だが十朱幸代に似た人という印象しかなかった。今、上映されている太宰治原作の映画『ヴィヨンの妻』で、「妻役は松たか子しかいない」と映画監督が指名したと何かに書いてあったことを思い出す。
舞台に水が流れてきて、なぜそうするのかは分らないが、確かに水が流れてくることで、異様な雰囲気が漂っていた。松たか子の演技は迫力に満ちていた。長いセリフが完全に彼女のものになっていた。瞬き一つできないくらいに舞台に引き付けられた。彼女は大人はというよりも男は(?)、子どもあるいは女(?)を支配するファシストだと言う。妹あるいはもう一人の彼女である女は、男と女の愛の形にはいろいろある。人にとやかく言われることはないと言う。
その妹の父親は「出会いはどこにでもある。どこでどんな人に出会い、恋をして愛し合うのに、ルールなんてものはない」と言う。どうも、この父親と妹は実の親子だけれど、何時しか愛し合う仲になっていたようだ。愛し合うということは、互いに必要とし合っているということだ。そこには他の人が入り込む余地などない。松たか子は妹にあなたはあの男に利用され洗脳されているのだと迫るが、父親と妹は身ごもったことを知り死んでいく(?)。「あなたたちは本物だったのね」と最後に言ったような気がした。
朝からしんどい舞台を見てしまった。午後になって、試験が終わった中学3年生の孫娘が井上真央さんの載っている雑誌を買って帰ってきた。「少年サンデー」は戦う場面が多く、リアリティに欠けて面白くなかった。「少女コミック」は恋愛ものばかりで、ちょっとエロチックで、女の子はこんなものを読んでいるのかと気になった。瀬戸内寂聴さんが「マンガでもいいから本に親しんで」と言っていたけれど、女の子はこんな風な危ない恋愛に憧れているのだろうか。
出会いはどこにでもある。けれどもそれを運命にするか否かは愛の深さだろう。じゃあ、愛の深さとはどんなものなのだろう。夜回り先生の水谷修さんは「みかえりを求めない愛」を説いていたけれど、求め合うからこそ愛し合えるのだろう。そして愛し合うからこそ相手を大事にできるのではないだろうか。
けれども、凄まじい舞台であった。松たか子という役者は歌舞伎役者の子どもで、テレビ・映画や演劇に出ていることは知っていても、その演技力がどれほどのものなのか、注意して見たことはなかった。私の中では古い女優だが十朱幸代に似た人という印象しかなかった。今、上映されている太宰治原作の映画『ヴィヨンの妻』で、「妻役は松たか子しかいない」と映画監督が指名したと何かに書いてあったことを思い出す。
舞台に水が流れてきて、なぜそうするのかは分らないが、確かに水が流れてくることで、異様な雰囲気が漂っていた。松たか子の演技は迫力に満ちていた。長いセリフが完全に彼女のものになっていた。瞬き一つできないくらいに舞台に引き付けられた。彼女は大人はというよりも男は(?)、子どもあるいは女(?)を支配するファシストだと言う。妹あるいはもう一人の彼女である女は、男と女の愛の形にはいろいろある。人にとやかく言われることはないと言う。
その妹の父親は「出会いはどこにでもある。どこでどんな人に出会い、恋をして愛し合うのに、ルールなんてものはない」と言う。どうも、この父親と妹は実の親子だけれど、何時しか愛し合う仲になっていたようだ。愛し合うということは、互いに必要とし合っているということだ。そこには他の人が入り込む余地などない。松たか子は妹にあなたはあの男に利用され洗脳されているのだと迫るが、父親と妹は身ごもったことを知り死んでいく(?)。「あなたたちは本物だったのね」と最後に言ったような気がした。
朝からしんどい舞台を見てしまった。午後になって、試験が終わった中学3年生の孫娘が井上真央さんの載っている雑誌を買って帰ってきた。「少年サンデー」は戦う場面が多く、リアリティに欠けて面白くなかった。「少女コミック」は恋愛ものばかりで、ちょっとエロチックで、女の子はこんなものを読んでいるのかと気になった。瀬戸内寂聴さんが「マンガでもいいから本に親しんで」と言っていたけれど、女の子はこんな風な危ない恋愛に憧れているのだろうか。
出会いはどこにでもある。けれどもそれを運命にするか否かは愛の深さだろう。じゃあ、愛の深さとはどんなものなのだろう。夜回り先生の水谷修さんは「みかえりを求めない愛」を説いていたけれど、求め合うからこそ愛し合えるのだろう。そして愛し合うからこそ相手を大事にできるのではないだろうか。