文化の日なのだから、文化の日らしいことをしたかったけれど、じゃあ文化の日らしいことって何だとなると、なかなかこれという決め手がなかった。いや、映画でも音楽界でも演劇でも、探せばいくらでもあるのだろうけれど、今朝はとても寒くて、一緒に出かけてくれるような人もいなくて、ずぅーと家にいることになった。じゃあ、テレビのWOWOWで映画でも観ればよいものだが、それも忘れて寝転んで本を読んでいた。
9日から始まる生涯学習講座『太宰治生誕100年』のため、講師が指定している作品を読んでおこうと思ったのだ。太宰が戦後に書いた「親という二字」「トカトントン」「ヴィヨンの妻」「おさん」「父」「饗応夫人」「桜桃」「家庭の幸福」が上げられているのだが、「親という二字」と「饗応夫人」が見つからない。今日は、「親友交歓」「トカトントン」「おさん」「父」「桜桃」「母」を読む。言葉も平易で、筆の運びがいいのか、どんどん読める。読めるけれども、どんどん陰鬱になってくる。
太宰の死が自殺だったことを知っているから、そういう目で読んでいるのかもしれないが、「死ぬこと」で早く終りにしたい気持ちがよくわかる。作品はどれもこれも、創作というよりは彼自身の日常を描いている。日常を描くことで、自分を探している。おそらく似たようなことがあったのであろうそれを題材に、へぇーという結びに持っていくのだから流石というほかにない。絶賛された作家なのだから当たり前なのかも知れないが、よくまあ、こんな風に自分の家庭のことを書き、それを他人が読んで「凄い」と評価したものだと、半分は羨ましくてそう思う。
昼から、中学3年の孫娘とその友だちがやってきて、ルーフバルコニーで6日に発表する創作ダンスの練習をしていた。朝から寒風が吹きぬけ、植木の水遣りに震え上がっていた老人とは違い、若い彼女らは音楽に合わせて熱心に踊りまくっている。何度も何度も繰り返し、笑い、大声を上げて、踊りを仕上げていった。我が家の上に住む住民がたまたま親しい友人でよかった。そうでなければ、「うるさい!」と怒鳴られてしまうところだ。どれくらい踊り続けていたのだろう。北の部屋に戻った彼女たちの笑い声が聞こえる。
中学生は親しい友人を「さん」付けでは呼ばないようだ。苗字で呼び合っているのを聞いていると、何だか喧嘩でもしているように思えてしまう。隣の小学校へ通学する5・6年生の女の子たちも、「テメエ」とか「フザケンナ」と言い合っていた。もちろん友人を呼ぶ時は苗字であった。女の子が女言葉を使わないと嘆くつもりはないけれど、寂しいなと思う。言葉は思いやりだ。でも、幼い時から男も女も同じ言葉を使っている彼らは、そういう意味では私たちとは違う言葉の使い方をするようになるのかもしれない。
それでもなぁー、彼女たちは太宰治を読んでくれるのだろうか。そして、太宰が「死」を選んだことに理解を示してくれるのだろうか。さて私は、文化の日なのだが、これから気になるプロ野球日本シリーズを見て来よう。
9日から始まる生涯学習講座『太宰治生誕100年』のため、講師が指定している作品を読んでおこうと思ったのだ。太宰が戦後に書いた「親という二字」「トカトントン」「ヴィヨンの妻」「おさん」「父」「饗応夫人」「桜桃」「家庭の幸福」が上げられているのだが、「親という二字」と「饗応夫人」が見つからない。今日は、「親友交歓」「トカトントン」「おさん」「父」「桜桃」「母」を読む。言葉も平易で、筆の運びがいいのか、どんどん読める。読めるけれども、どんどん陰鬱になってくる。
太宰の死が自殺だったことを知っているから、そういう目で読んでいるのかもしれないが、「死ぬこと」で早く終りにしたい気持ちがよくわかる。作品はどれもこれも、創作というよりは彼自身の日常を描いている。日常を描くことで、自分を探している。おそらく似たようなことがあったのであろうそれを題材に、へぇーという結びに持っていくのだから流石というほかにない。絶賛された作家なのだから当たり前なのかも知れないが、よくまあ、こんな風に自分の家庭のことを書き、それを他人が読んで「凄い」と評価したものだと、半分は羨ましくてそう思う。
昼から、中学3年の孫娘とその友だちがやってきて、ルーフバルコニーで6日に発表する創作ダンスの練習をしていた。朝から寒風が吹きぬけ、植木の水遣りに震え上がっていた老人とは違い、若い彼女らは音楽に合わせて熱心に踊りまくっている。何度も何度も繰り返し、笑い、大声を上げて、踊りを仕上げていった。我が家の上に住む住民がたまたま親しい友人でよかった。そうでなければ、「うるさい!」と怒鳴られてしまうところだ。どれくらい踊り続けていたのだろう。北の部屋に戻った彼女たちの笑い声が聞こえる。
中学生は親しい友人を「さん」付けでは呼ばないようだ。苗字で呼び合っているのを聞いていると、何だか喧嘩でもしているように思えてしまう。隣の小学校へ通学する5・6年生の女の子たちも、「テメエ」とか「フザケンナ」と言い合っていた。もちろん友人を呼ぶ時は苗字であった。女の子が女言葉を使わないと嘆くつもりはないけれど、寂しいなと思う。言葉は思いやりだ。でも、幼い時から男も女も同じ言葉を使っている彼らは、そういう意味では私たちとは違う言葉の使い方をするようになるのかもしれない。
それでもなぁー、彼女たちは太宰治を読んでくれるのだろうか。そして、太宰が「死」を選んだことに理解を示してくれるのだろうか。さて私は、文化の日なのだが、これから気になるプロ野球日本シリーズを見て来よう。